一方、小原は参考人として警察の取り調べを受けてからまもない1963年8月、文京区の湯島天神で賽銭泥棒を働き懲役1年6ヶ月(執行猶予4年)の判決を受けた後、執行猶予中の同年12月に工事現場からカメラを盗み、1964年4月に懲役2年の実刑が確定。前橋刑務所に収監されていた。
犯人逮捕につながった「ベテラン刑事の執念」
1965年3月11日、下谷北署に置かれていた捜査本部が解散。時を同じくして警視庁捜査1課に4人の刑事で構成される専従捜査班が設けられる。その中の1人が行員12人が毒殺された帝銀事件(1948年)や国鉄総裁が不審死を遂げた下山事件(1949年)の捜査にも関わった当時41歳の平塚八兵衛(1913-1979)だ。
平塚の狙いは小原1人に絞られていた。以前の取り調べでは逮捕を免れていたものの、平塚は独自の調べで、事件後に小原が密輸で儲け借金の返済に宛てたという20万円の他に、弟に30万円を見せていたことを小原の恋人女性から聞き出していた。合わせて50万円。身代金の額と完全に合致していた。
平塚が小原を真犯人と睨んだ理由は他にもある。当初、捜査本部が見立てた犯人はその声から40歳~60歳だったが、その後、警視庁が東京外国語大学の教授に依頼した鑑定では脅迫電話の声を従来の推測とは異なる「30歳前後」と推定、声紋分析で犯人からの電話の声が小原とよく似ていると指摘していた。
これは、事件発生直後の1963年5月に、文化放送の記者が行き付けの喫茶店で「声に似た人を知っている」という話を聞きつけたことがきっかけで、よく顔を出すという飲み屋に張り込んで小原にインタビューした録音音声と比較検討した結果だった。