崩壊したアリバイ
こうした状況を踏まえ、平塚は上司に前橋刑務所に収監されている小原の身柄を東京拘置所に移し、改めて取り調べさせてくれるよう嘆願する。上司は人権侵害などの非難を浴びることを承知のうえでこの申し出を承諾。5月13日、移監の手続きが取られる。
4日後の17日、平塚は小原の故郷、福島に足を運びアリバイを調べ直した。結果、足を引きずる小原らしき男を3月31日に目撃したという前出Aさんの証言は前日の3月30日であったことが判明。またBさんの証言も、4月2日に孫を病院に連れて行ったことは事実ながら、5日前の3月28日にも孫を連れ通院したことがわかり、Bさんも小原らしき男を見たのは同日であることを認めた。
さらに、小原の兄嫁が1963年3月当時は落とし鍵ではなく、すでに南京錠に替えられていたと証言。小原のアリバイは完全に崩壊した。
東京拘置所での取り調べは1965年6月23日から始まった。ただし、調べはあくまで任意で、勾留期限は10日と制約が設けられた。
平塚がまず問いただしたのは身代金が奪われた後、小原が得ていた大金の出どころである。
犯人は嘘をついている
これに対して、小原は当初「時計の密輸話を持ちかけた人物から横領した」と述べたが、その人物の具体的な情報を話さない点を問い詰められて、取り調べ4日目にそれまでの供述が嘘であることを認めた。が、以後は雑談には応じるものの、話が事件に近づくと曖昧にはぐらかしたり、黙秘を続ける。
平塚は福島県に住む小原の母親に会った際、「もし息子が人として誤ったことをしたなら、どうか真人間になるように言って下さい」と言いながら母親が土下座をしたエピソードを話し、自供を促した。アリバイが崩れていることはあえて口にしなかった。
そして迎えた勾留期限最終日の7月3日、小原が何気ない雑談の中で、1963年4月3日に東京に戻った際、山手線から火事を見たと口にする。
平塚はピンときた。小原の言う火事は負傷者220人を出した「日暮里大火」に違いない。が、火災が起きたのは4月2日。小原は嘘をついている。平塚はここから一気に責め立てた。録音テープに残されたその際の会話を一部再現する。