指揮官に必死に食らいついて
先輩選手の栗山英樹と経済問題や社会情勢を語り合う変わり種ルーキーは、5割を超える盗塁阻止率が話題となるが、『週刊ベースボール』記者の直撃にも「重要なのは盗塁阻止率より、相手チームの『盗塁企画数』だと考えています。なぜなら、それが少ないほど走りづらい捕手だと警戒されている裏付けですし」と冷静に答えている。
やがて秦は外野へコンバートされ、ライバルと目された若手捕手の飯田哲也も二塁へ。急ピッチでチーム再編を進めるID野球の中心には、「キャッチャー古田」がいた。正捕手の座を摑むと6月6日の広島戦でプロ初アーチを放ち、オールスター戦にも監督推薦で選出。新人捕手の球宴出場は田淵幸一(阪神)以来、21年ぶりの快挙だった。そんな順風満帆に見えた古田のプロ1年目だったが、本人は野村監督の高い要求に応えようと日々苦しんでいた。
「配球一つで試合の流れが変わるので、そういうところを口すっぱく。監督からは『何だ、あの配球は』『何でこんなサイン出すんだ、ボケ』と。試合に出てると、不安ばっかりなんですよ。とくに1年生なんてね。先輩の投手ばっかりで、サインを出しても抑えられるかわからないし、相手はみんなよく打つし。『どうしたらいい、どうしたらいい』って、ずっと不安のなかでやっていました」(『証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと』/古田敦也・宮本慎也他/宝島社)
それでも、一度プロから見放された男は必死に食らいつく。試合中、野村監督に何度も呼ばれて立たされたまま説教をされるので、いつからかベンチでは自分から監督の前に座った。それはルーキーにとって戦いの日々でもあった。上司の叱責から逃げるのではなく、あえて懐に飛び込む。古田は割り切っていた。プロで実績を残すまでは、文句を言ったところで誰も聞いてくれない。
ボヤきが理不尽であろうが、腹が立とうが、偉大な名捕手の監督からなにかを言われたら、とにかく元気よく返事することを心がけた。そして、試合に出続けることで、経験と信頼を積み重ねていったのである。野村監督は、厳しく指導する一方で、年俸700万円のルーキーの働きにこんな言葉を残している。
「アイツ、オレよりいい読みをすることがある。いまのウチの投手陣は、捕手のリード次第で生きたり死んだりするレベルなんだ。古田の力で勝敗が左右されるんだよ。そんな状況でオレが使い続けるんだから、アイツを“代理監督”と思ってもらってもいい」(『週刊ベースボール』1990年8月13日号)
