野村ヤクルト1年目は5位に終わるも、古田は106試合に出場。打率・250、3本塁打、26打点。盗塁阻止率・527(企画数55、阻止29)はリーグトップで、新人捕手として史上初のゴールデン・グラブ賞を受賞した。翌91年には、セ・リーグ捕手の歴代最高打率・340で、落合博満(中日)との熾し烈れつな争いを制し首位打者を獲得。チーム11年ぶりのAクラス入りに貢献すると、プロ3年目の92年には攻守の大黒柱として野村ヤクルト初優勝の原動力となる。
“戦う選手会長”「代打、オレ」
あの野村克也が認めた、グラウンド上の代理監督。瞬く間に、“平成最強捕手”へと駆け上がった古田敦也だったが、その頃にはもう、「メガネの捕手は大成しない」なんて誰も言わなくなっていた。卓越した技術と頭脳と度胸で球界のキャッチャーのイメージを変えた男。現役引退後に古田は自身の野球人生の分岐点とも言える、駆け出しのプロ1年目をこう振り返っている。
「私も1年目、ある投手に『新人にリードはさせない。おまえは内角か外角かのサインだけを出して、そこに構えればいい。あとは必死に捕れ』とはっきりと言われました。プライドもあったのでしょう。ただ、そこで嫌がって相手を敬遠したのではプロ失格。だから、『どうすれば信用してくれるのか』と考えました。とにかく話しかけ、試合ではしっかり捕る。それを繰り返していたら、バッテリーを組んで5試合目くらいに『今日からおまえに任せる』と言ってもらえたんです」(「週刊ベースボールONLINE」2016年6月23日)
粘り強く物事を考え抜く古田は、2004年の球界再編時には、“戦う選手会長”として最前線で12球団制の維持に奔走。翌05年に捕手としては野村克也以来史上2人目の通算2000安打を達成し、06年からはヤクルトの選手兼任監督で指揮を執り、「代打、オレ」が話題となった。
大学時代のドラフト指名漏れの屈辱から、ついには野球殿堂入り捕手へ。もし、あの時、古田が事前の予定通りパ・リーグの球団に指名されていたら、平成球史は大きく変わっていただろう。振り返れば、その1987年のドラフト会議で話題を独占していた大学生が、古田と同学年の長嶋一茂だった。
