「私を解剖して」と願い出た農婦
ここで、この感染症解明の歴史において有名な、そして少しばかり不穏なエピソードを紹介しよう。
明治30(1897)年、山梨県に住む54歳の農婦・杉山なかは、やはり水腫脹満に苦しんでいた。その死の間際に「自分の体を病因究明のために役立ててほしい」という遺書を残して献体を申し出た。
長年人々を苦しめてきた病を撲滅せんと、献身的な姿勢が涙ぐましいエピソードであると言えよう。
その解剖は向村寺という寺の境内で執り行われた。全県下から集まった医師は57名。執刀する5人の医師を取り囲む熱気は、異常なものだったという。
少しでも近くでその瞬間を見ようと、医師たちは猿さながらに境内の高い木によじ登った。あまりの重みに枝が折れて怪我人が出たとか。
彼女の肝臓や腸壁からは、おびただしい数の卵が見つかった。この解剖が、その後の成虫発見への決定的な足がかりとなったのは事実である。
だが後年、この美談には裏があったことが判明する。と言うのも、なかによるものとされる解剖願の書面が、当時の一農婦が書くにはあまりに医学的に整いすぎていたのだ。それは主治医がなかの名を借りて認めたものだったのだ。
本人の真の遺志がどこにあったのか、今となっては知る由もない。ただ、彼女の犠牲の上に、医学の扉がこじ開けられたことだけは確かだろう。
ついに姿を現した卵の産み主
卵の産み主がついにその姿を現したのは、明治37(1904)年のことだった。
発見したのは病理学者・桂田富士郎。彼は山梨県の流行地で1匹のメス猫を解剖した。名は「姫」。この猫は、研究のためにわざと流行地の池の水に浸からせ、病気に感染させられた個体だった。
桂田は猫の肝臓へと続く門脈を切り開き、ついに犯人を発見した。
そこには、おぞましいことに雌雄が合体してうごめく小さな寄生虫がいたのである。その数、32匹。成虫の体内にある卵巣を調べると、かつて杉山なかの遺体から見つかったものと全く同じ卵だった。
こうして恐るべき病の正体が判明。「日本住血吸虫」と名付けられるに至る。
さらに同年、京都帝国大学の教授だった藤浪鑑は、人間の患者の遺体から同じ成虫を発見することに成功する。
山梨県で「御指揮願い」が出されてから23年。市井の人々や実験動物たちの数多の犠牲と医師たちの執念に近い研究の末、ついに人類は敵の正体を突き止めたのだ。富国強兵が病気の原因究明を早めたとも言える。
だがしかし、これで大団円とはいかなかった。