パリでの出井のミッションは、まず今まで使っていた販売代理店との契約を解除することだった。その上で、フランスの大蔵省(経済・財政・産業省)と折衝し、直接投資の道筋をつけることである。

 しかし、日本とは商慣習が異なり、従来の代理店契約を解除するのは非常に困難な仕事となった。しかもその代理店のオーナーは、当時のフランス政府高官に強いコネクションを持っており、それを使って出井の大蔵省との交渉に横槍を入れた。そればかりか、フランス政府高官の紹介を受け、直接、ソニー社長の盛田昭夫に電話を入れて、代理店契約の継続を訴えもしていた。

会社だからこその経験

 パリで一人、出井は毎日のように大蔵省に足を運んでは交渉を続けたが、自分が知らぬところで起きていることなど知るよしもなかった。やはり、盛田昭夫という経営者は優秀な経営者だったのだろう。自らが出井に命じた独自の販売店の設立計画が、フランス政府をも巻き込み、問題化している事態を目の前にしても、妥協して「従来の代理店でいい」と出井に命じることはなかった。盛田は、フランス政府も動き、政治問題化していることを出井に伝えることもなく、30歳の“小僧”の孤軍奮闘を見守った。

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 1963年、敗戦から18年、まだ日本は戦後復興の途上にあったこの時期、盛田は家族5人で渡米し、ニューヨーク・マンハッタン五番街に住居を構え、2年間生活を送った。世界最大のマーケットを持つ米国と米国人を知るため、米国のインサイダーになるためだった。こうした経験を持っていた盛田は、よくわかっていた。その国の商慣習、気風、ビジネスのあり方などは経験、失敗、苦い思いをしながら、七転八倒しながら身につけるしかないということを。だから、盛田はフランス政府関係者が動いていることも、出井の動きに対し、政治的な横槍が入っていることも伝えることはなかった。入社したら欧州に留学したい、欧州でビジネスをしたいと言って、入社してきた“小僧”の未来を盛田はただ見守っていた。

©文藝春秋

 東京本社からはるかに離れたフランスで、上司も部下もいない出井は、ただ一人で奮闘するしかなかった。大蔵省に足繁く通っては、日本からの直接投資ができる術を模索し、それと同時に経済問題に精通した何人もの弁護士に相談しては、法律の抜け道を探した。出井は当時を回想し、

「欧米の一流大学院で取るMBA(経営学修士)の何十倍もパリで学んだ」と言い、さらにこんな言葉も付け加えた。

「こんな人生の宝になるような経験ができたのも、僕がソニーのサラリーマンをしていたから。ソニーだからこそ、やらせてもらえた仕事だった。他の会社では経験できなかっただろうと思うね」