強制送還、左遷
フランス大蔵省との粘り強い交渉の結果、ようやくフランス企業が50%、ソニーが50%の出資の合弁企業ならば認可するとの見解を勝ち取る。優秀な弁護士とともに通い続けた5年がかりの成果だった。
しかし、問題となったのが合弁先だった。東京本社からは従来の代理店と合弁を組むようにとの指示が出されていた。けれども、出井は首を縦に振らなかった。従来の代理店からは不正の匂いを感じ取ったからだ。出井は本社の意向に反して、つまり上司の意向に逆らって勝手に合弁先を探し始める。結局、将来的にはソニーがすべての株式を引き受けるという条件を飲んでくれたスエズ銀行(現、クレディ・アグリコル)を合弁先に決定した。
出井本人とすれば、イギリス、ドイツ(当時、西ドイツ)に後れを取ったものの、今までソニーに損害を与えていたであろう代理店を追放し、フランスにおいて海外企業としては初めてである、合弁会社を作るというスキームを成功させたのが自分であることに誇らしさを感じていた。
ところが、出井を待っていたのは半ば強制送還のような本社からの帰国命令だった。さらに帰国した出井を待っていた辞令は、ソニー本体ではなく、子会社「ソニー商事」の横浜市にある物流センターへの出向だった。まさに半沢直樹が“都落ち”のような形で証券会社に出向したようなものだった。1970年代、子会社への出向は“昇進レース”からの脱落を意味していた。
いきなり子会社、しかも、物流センターへの出向は、ショックだったのではないか?
「半沢直樹だったら面白いストーリーになるんだけども、当時はもちろん、そんな気持ちの余裕はないわけですよ。相当に、本当にショックでしたね」
出井が35歳のときである。サラリーマンとなり、プロジェクトリーダー的な立場に立つ年齢だ。部下もでき、責任ある立場になるのもこの頃である。まさに、サラリーマン人生で最も重要とも思えるこの時期に出井は“左遷”された。それも、物流センターという、“世界のソニー”としての地歩を固めつつあった当時のソニーから見れば、“島流し”のような明らかな左遷人事だった。
「腐ったね。まあ、会社っていうのはこんなことをする組織なのかって思いましたね。もう、本当に落ち込んだ」