今年3月に東京大学の駒場キャンパスで開かれた「日本原子力学会」の春の年会に、2人の女子高生が参加していた。私立・福井南高校3年生(当時)の今泉友里と2年生の森夕乃の2人である。

 研究者や官僚、企業などが集まる会に参加し、壇上で発表までするのは異例中の異例。その始まりは「私が育った福井県は、どうして日本で一番原発が多い県なんだろう」という今泉の素朴な疑問だった。

今泉友里さん(中央)

 福井県に11基もの原発が建てられるきっかけは、敗戦の約10年後から始まっている。

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 戦争で国の基盤が崩壊していた日本は、国主導の産業計画によって“奇跡の復興”への道を歩みだす。特に造船、製鉄、重化学工業に手厚く資金が投入され、南関東から北九州まで延びる太平洋工業ベルト地帯が形成されていく。

 繊維産業が盛んだった福井県も時代の流れに乗ることになる。「化学繊維に放射線を活用できないか」という地元の繊維産業声を受けて、「福井県原子力懇談会」が1957年に設立。原子力発電所の根拠となる原子力基本法が成立した2年後のことだった。

「(原発に)反対している人たちからも話を聞いてみれば」

 原発を設置したい国の要望に応えるように、当時の福井県知事・北栄造は敦賀市、美浜町に原発誘致を依頼している。敦賀市はそれを受け、市議会で原発誘致を可決する。1970年に「敦賀原発1号機」(日本原電)と「美浜原発1号機」(関西電力)が運転を開始。その後も「高浜原発」「大飯原発」が次々と建設されていった。

美浜原発 ©AFLO

 福井県で原発が稼働を開始した30年以上後に生まれた今泉たちは、11基もの原発が作られた経緯や発電所の仕組みを定める「電源三法」について勉強する過程で、県内の原発賛成派、原発賛成派の人々とも会っている。話を聞かせてくれた福井県庁職員の一言だった。

「(原発に)反対している人たちからも話を聞いてみれば」