年貢米を運ぶ一大拠点だった

 秀吉が長浜城を築城したのは1574年のこと。1582年の本能寺の変後は秀吉の手を離れ、江戸時代には彦根藩の領地に組み込まれて城も取り壊されている。つまり、秀吉時代はほんの8年ばかりということになる。

 

 それでも、秀吉が年貢を免除するなどして保護した長浜の商業が衰えることはなかった。

 特に長浜港は米原・松原(彦根城下)と並んで彦根三湊と呼ばれ、物資の集散地として江戸時代を通じて賑わっている。湖北の年貢米を大津や彦根に運ぶ一大拠点だったというわけだ。

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 さらに北国街道の宿場町という役割もあり、郊外の国友は鉄砲の生産地として名を馳せた。

 江戸時代後期に丹後から技術を導入して盛んになった浜ちりめんは、長浜きっての特産品。城下町ではなくなり歴史の表舞台からは退いたものの、湖北の中心として長浜は確かな存在感を放っていたのである。

 

 そんな長浜が、明治に入って再び表舞台に名を見せる。長浜駅の開業だ。

 普通ならば、地方都市の駅がひとつ開業したなんて珍しくもなんともないところ。しかし、長浜駅は他の駅とはまったく違う、特別な意味を持っていた。

 

 というのも、長浜駅は琵琶湖舟運と結びついた日本初の“鉄道連絡船”とともにはじまった駅だからなのだ。