いまも連絡船時代の遺構がある
しかし、そんな賑わいも7年ほどで幕を閉じる。1889年に現在の東海道本線にあたる、大津~米原~長浜間が開業したのだ。
大垣方面との分岐もそれまでの長浜から米原に改められ、この時点で長浜は交通の要衝から一介の通過駅に役割を変えることになる。
この変化によって、長浜駅も形を変えた。港近くにあった駅舎はそのままに、1902年に現在地に新しい駅舎が建てられる。
現在は橋上駅になって駅の東西に出口があるが、このときの駅舎は中心市街地の広がる東口に置かれていたという。海に背を向けた、途中駅としての長浜であった。
いまでも、連絡船時代の長浜駅舎や慶雲館は残っている。橋上駅から西口に出て、線路沿いを少し南に歩いたところにあるのがそれだ。
駅舎は「長浜鉄道スクエア」という鉄道博物館となり、その向かいの慶雲館もそのままに。
古くからの町の中心からはちょっと離れた町外れに佇む、開業当時の長浜ステーション。黒壁スクエアには背を向けているからか、こちらに来る観光客もいくらか少ない印象だ。
秀吉さんの町というだけではない
それでも、秀吉時代とほとんど同じ10年足らずの連絡船時代は、長浜という町の歴史のエポックメイキングであったことは間違いないといっていい。
古い長浜駅舎から、ほんの5分も歩けば現在の長浜港。竹生島への船が出ている。現在の琵琶湖の舟運は、かつての交通の大動脈としての姿は失ったが、観光色の強い存在としていまも続いているのだ。
そして、そんな港のすぐ北に広がる豊公園。その一角に、長浜城跡の模擬天守が聳えている。日本一の湖に面する港町・長浜。そのシンボルは、やっぱり秀吉さんのお城なのかもしれない。
撮影=鼠入昌史





