船に乗るための駅でもあった

 長浜駅が開業したのは1882年のこと。この当時、鉄道は新橋~横浜間や大津~神戸間などごくわずかしか開通していなかった。そんな中、京阪神と日本海沿いを結ぶ大動脈として、長浜~柳ヶ瀬間が開通。次いで1884年には金ヶ崎(敦賀)まで延伸したのである。

 

 そして同時に、長浜と大津の間の航路との連絡もはじまった。大垣~長浜間が開通すると、鉄道と船の連絡きっぷも発売され、名実共に鉄道連絡船の歴史はスタートしたのだ。

 もともと琵琶湖には秀吉の時代、いやきっとそれよりも前からたくさんの船が行ったり来たりして、物流の要を担っていた。明治に入ってすぐに蒸気船が導入されて、縦横無尽に琵琶湖の上を駆け巡る。それだけ充実した物流網が湖の上にあったのだから、鉄道ネットワークにもそれを利用したのだ。

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 のちの青函連絡船などは、いずれも国鉄が自ら運営していた。ただ、長浜と大津の連絡船は、太湖汽船という民間企業の手によった。

 

 もちろん国が補助金を出してはいたようだが、国の運営する鉄道路線の間を民間の船が結ぶという、近代黎明期の日本の試行錯誤を象徴するかのような仕組みになっていた。

 

 この太湖汽船の創業者のひとり浅見又蔵は長浜の人物で、長浜への駅設置を強く求める運動にも関わっていたという。

 当初、国の計画では米原に駅と連絡船の港を置く計画だった。太湖汽船を興して駅の設置を求めた浅見の力が、近代長浜の繁栄に大いに貢献したことは間違いない。

 

 ともあれ、駅と連絡船が開業すると、長浜は繁栄を謳歌する。なにしろ、鉄道で関東と関西、また関西と北陸を行き来しようとすれば、決まって長浜で降りて鉄道と船を乗り継がねばならないのだ。

 長浜駅前には旅館や運送店が軒を連ね、それはそれは活気に満ちていたという。

 
 

 1887年には、明治天皇も長浜を訪れている。京都を訪れた帰路、大津から連絡船で長浜にたどり着き、駅前の慶雲館(浅見又蔵の別邸)でしばし休憩。ふたたび列車に乗って関ケ原・大垣方面に向かっていった。