食べたいと思う意欲は、生きる意欲

 いくら注意してもバターを塗るのを止めないので、とうとう定期検診のとき、お医者様にチクりました。

 そのお医者様は父の最期を看取ってくださった「よみうりランド慶友病院」を運営する医療法人社団慶成会の大塚宣夫会長です。高齢者のための病院なので、患者の医療面のケアだけでなく、その人の気持や家族の心配ごとなどにも親身になって相談に乗ってくださいます。

「数値はとくに問題ないようですが、なにか心配なことはありますか?」

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 大塚先生に問われたとき、私は心配ごとを明かしました。

「母はバターが好きで、パンにたっぷり塗りすぎるので止めさせたいのですが、言うことをきかないんです」

 すると先生がニッコリ笑っておっしゃいました。

「いいじゃないですか。好きなものは食べさせて差し上げてください」

「え、食べさせちゃっていいんですか?」

「食べたいと思う意欲は、生きる意欲です。食べたい気持がなくなったら、それはもう、死に向かい始めたということです。食べたいうちは、少々身体に悪いものであっても、食べさせたほうがいい。意欲のほうが大事なんですから」

 そして先生はしばしの間をおいて、つけ加えました。

「それにね。バターの弊害が出るまで、あと10年ぐらいはかかりますよ」

母は92歳までバターを⋯

 そのとき母はすでに90歳になっておりました。あと10年経てば母も100歳。その10年間を「あれもダメ。これも食べちゃダメ」と叱りつけて禁止するより、「食べたい」と思う母の気持を大切にして、余命を楽しく過ごさせるほうがいいのかもしれない。

 深く納得しました。貴重なお言葉をいただいて、以後、母のバター好きを大目に見るようにいたしました。

 ちなみに母は92歳で他界しましたが、最期までパンにバターをたっぷり塗って、嬉しそうでした。

年とる力 (文春新書)

阿川 佐和子

文藝春秋

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