「刃物を振り上げた父に斬られそうになった」父親からの激しい暴力におびえる日々
泥酔した父が暴れだすと、兄に手首をひかれ裏の畑へと逃げ出すのが常だった。散々荒れ狂ったあと、父が板の間で大の字になっていびきをかきだすと母が迎えに来る。
ただし、寝込んだとはいえ、安心はできない。夜中に突如、ばね仕掛けのように飛び起きて、兄や幼い美千代さんを殴りつけ、投げ飛ばすのだ。
美千代さんは、刃物を振り上げた父に斬られそうになったことさえある。振り下ろす直前に、近所の人に助けられて命拾いをした。壁やふすま、あちこちに穴が開いたり破れたりしている家で、突然鬼の形相、「大魔神」となってしまう父におびえながらの生活であった。
「あいつが殺しに来る」幻覚、幻聴の症状も
地獄の日々のなかにさしはさまれるのは、戦場の話だった。
「『お父ちゃんはな、敵の砲弾の中、救援物資を運んだんや』っていうのを、もう繰り返し繰り返し、本当に何度も言ってました」
「死体をいっぱい見た」と話していたのも美千代さんは覚えている。のちに親族に聞いたところでは、空襲で先輩兵士が亡くなり、バラバラに散らばった遺体を見たのだという。家庭を持てず死んでいった戦友たち、生き残った自分。その思いとともに父は暮らしていたのではないかと、美千代さんは考えている。
戦場で傷付いた心を癒す機関などなかったし、本人も恥の意識があって他人に苦しみを吐露することもできなかったのかもしれない。父は時を経るごとに心の均衡を崩し、幻覚、幻聴の症状もあらわれていった。
嵐の日、窓ガラスがガタガタ鳴り出すと、父は途端に震えだし、涙を流す。
「はっきり言ってました。もう兵隊の足音が、軍隊の足音が聞こえるって。ロシア兵なのか日本兵なのかアメリカ兵なのかわからない。『あいつが殺しに来る』って」
子供の耳には、「あいつ」の名をミツル、と言っていた気もするし、後から考えればミハイルだったかもしれないが、もうわかりようもない。
