「おとなしく穏やかな人だと言っていた」父の足跡を追って見えてきたこと

 長い年月、フタをしてきた父の問題に、正面から立ち向かう勇気を得たのだった。それからは、父の足跡を追いはじめた。親族に聞き取りをし、厚労省に問い合わせ、軍歴も調べはじめた――。父の足取りが見えてきた。

 1922年(大正11年)、鳥取の農家に生まれた石松さんは、15歳で京都に出て、軍需工場の旋盤工として働き、当時としては珍しい運転免許を取得している。

 この時期までの石松さんしか知らない人たちは、おとなしく穏やかな人だと言っていた。19歳で志願して海軍に入隊、整備兵・機関兵として呉の鎮守府にいたのち、千島列島中部の松輪島(ロシア名:マトゥア島)へ派遣されている。

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藤岡さんの父・古本石松さん。写真は19歳頃、海軍航空隊にて(藤岡美千代さん提供)

 松輪島は戦時中、日本軍の飛行場が建設され、数千人の兵士が駐留していた。船舶や航空機の給油拠点の1つとして機能していたようである。現在は、ロシアの実効支配下にある。

父親は戦争と抑留生活で精神的に大きなダメージを負った

 同時期に島にいた兵士の回顧録によれば、空襲が繰り返され「神経衰弱になり参ってしまいました」と言うような激戦地であった。艦砲射撃が繰り返され、飛行場が崩壊した状況をその兵士はこう書き残している。

「あの砲撃のすさまじさでは手も足も出ないでしょう。海岸線の防備は全滅、各種砲は全部使用不能、ただ肉弾戦あるのみです。横穴に立てこもっても火炎放射器でやられれば一溜りもなく、大和魂で戦えなどと語っても始まらない話です。他の戦場の玉砕の様子が理解出来ました」(「千島・松輪島戦記」加藤玖市 平和祈念展示資料館『労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)』より)

 米軍の圧倒的な砲爆撃の前になすすべなく、いつ全滅してもおかしくない最前線に石松さんはいた。物資輸送に従事していたと美千代さんに語った場面は、この時期のことかもしれない。

 やがて、海軍二等機関兵曹の階級で終戦。ソ連軍の捕虜となって、ハバロフスクのムーリー収容所へと送られ、抑留生活を送った。極寒の収容所(ラーゲリ)での強制労働は、言語に絶する過酷さであったことが知られている。

 のち、1948年(昭和23年)8月に舞鶴に上陸し、復員した。この間に、父は精神に大きなダメージを負う体験をしたことになる。

次の記事に続く 「父がしたことは一切許していない。ただ…」“戦争トラウマ”に苦しんだ父親から虐待されて性暴力を受けた67歳女性が、それでも“父の写真”を持ち続ける理由

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