歌えなくなった「からたち日記」
そのころの島倉はあまりに多忙で、1日2~3時間しか寝られない状況が続き、過労のせいか突如として高い声が出せなくなった。それが折悪く公演中で、ステージで当時のヒット曲「からたち日記」(1958年)を歌っていると、低音部ではちゃんと出ていた声が、高音部に入ると途切れてしまう。島倉が思わず「ごめんなさい」と叫ぶと、客席から誰かが彼女に代わって歌い出した。するとほかの客たちも一緒に歌い始め、低音部になるとパッと止まり、彼女がまた歌い出す。そして次の高音部でも観客みんなが……と、いつしかステージと客席が一体となって合唱になっていたという。
後年にいたっても彼女はこのときのことを思い出すたび《私、この話に一番弱いんです。涙が出てきてしまうんです。つらかったのと、うれしかったのと、ありがたかったのと、で》と語っていた(読売新聞解説部『時代の証言者10「歌謡曲」島倉千代子』読売新聞社、2005年)。
ただ、ファンの応援をありがたく思いながらも、完全な歌を聴かせられなかったことに大きなショックを受けた島倉は、このあと自宅に電話して姉を呼び出すと、そのまま品川から列車に乗り、しばらく静岡の友人宅に身を寄せた。人気絶頂にあっただけに、世間では彼女が失踪したと大騒ぎになる。島倉にとってはこれが歌手になって初めて味わった挫折であった。
島倉にはこのあとも幾度となく災難が降りかかる。失踪騒ぎを起こした翌1960年の元日には東京・品川の実家の玄関先で爆発事件が起こった。さらにこの年3月には、ほかの歌手とともに出演予定だった横浜での歌謡ショーに群衆が殺到し、12人が圧死する大惨事となる。島倉はあいつぐ事件や事故に、自分の責任ではないにもかかわらず苦悩した。
