しかし、幸せな結婚生活は長くは続かなかった。そもそも島倉が結婚を決めた理由の一つには、何かにつけて厳しい母との関係が息苦しくなっていたことがあった。そのため結婚すると家族から逃れるようにして、阪神の本拠地・甲子園球場のある兵庫県西宮に移住、夫の家族と同居を始める。

孤独を決定づけた一言

 だが、《私は歌をやめて専業主婦になろうと思ったんです。でもそれについて相手から返事をもらえないまま生活が始まって……》とのちに明かしているように(『週刊文春』1998年5月21日号)、結婚した時点から夫とボタンの掛け違いが生じていた。残念ながら一緒に暮らすうち夫婦の溝はどんどん深まっていく。決定的だったのは、藤本から「奥さんの歌には飽いたなぁ」と言われたことだった。独りぼっちだと思った島倉は、睡眠薬を大量に飲んで死のうとするほど精神的に追い詰められる。

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 結局、結婚3年で彼女は西宮の家を出た。このとき実家に戻ろうとしたが、母に「二度と敷居はまたがせない」と拒まれる。しかたがないので知人宅を転々とした末、東京・赤坂の家賃2万円のアパートに落ち着き、付き人と運転手の3人でしばらく暮らした。雨漏りがするようなアパートで、お金がなくて3人で2つのインスタントラーメンを分けて食べたこともあったという。それから2年を経て協議離婚が成立、夫の現役引退後の開店資金のほか、彼の借財の一切を島倉が背負うことになった。

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 それでも仕事は順調で、1966年にはハワイアン風のリズム歌謡「ほんきかしら」がヒットし、新路線を切り拓いたと評される。離婚が成立した1968年には「愛のさざなみ」で日本レコード大賞の特別賞を受賞し、今後も歌っていく自信が生まれたという。

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