具志堅さんが遺骨収集の現場として選ぶ場所は大きく二つに大別できる。
一つは、今紹介したような集落と集落の間にあるような未開発の緑地帯や森だ。生活圏からさほど離れていない、日常からの連続性を感じるような場所。だが、もう一つの場所は現代の日常生活からは切り離されている。沖縄特有の地形であり、沖縄戦を語る際に決して外すことのできない場所だ。そこは沖縄の言葉でガマと呼ばれている。
ガマで起きた出来事
ガマとは主に琉球石灰岩が隆起した際にできた鍾乳洞(自然洞窟)のことを指す。沖縄島の全域に分布しているが、特に中南部に多く見られる。名前のついた巨大なガマがある一方で、地元の人しか知らない小規模なものもあり、様々な形態が存在している。古くは祭祀や信仰の場所でもあり、地域によっては風葬(遺体を土葬や火葬せずに一定期間安置し、風化させ自然に還す葬礼)する際の遺体の安置場所としても使用されていた。沖縄のお墓の伝統的な形式である亀甲墓(墓室の屋根が亀の甲羅の形をした墓)の中には、ガマと一体化したようなものも多い。戦前までの沖縄の人にとって、ガマは生活と地続きの空間でありながら死と生のあわいのような神聖な場所として認識されていたのではないか。
沖縄戦当時、米軍の激しい攻撃は台風の風雨のように砲弾が降り注いだことから「鉄の暴風」と形容される。沖縄の住民の多くは「鉄の暴風」から身を守るために家族や親類と共にガマに避難した。日本軍もその地形を利用し、軍専用の陣地壕として整備して使用したガマもあった。戦況が悪化してくると、住民が避難していたガマは野戦病院として使用されたり、敗残兵となった日本兵が避難してきたりして、様々な背景を持った人たちが入り混じって避難生活をすることになる。
沖縄戦の終盤、米軍はガマに立て籠った日本軍や住民に対して投降を呼びかける。それに応じなかった場合、米軍は「馬乗り攻撃」と呼ばれる方法でガマの内部を攻撃した。壕の入り口や、壕の上部に掘削機などで穴を開け、手榴弾を投げ入れたり火炎放射器の噴射やガソリンを注いで火を放つ。この攻撃で、各地のガマで多くの住民や兵士が犠牲となった。
ちなみに、この馬乗り攻撃の様子は米軍が撮影したアーカイブ映像に頻繁に登場する。これは米軍という勝者の視点に由来した表象/イメージでもあり、『骨を掘る男』はそれへ抵抗する物語として制作された側面もある。
ガマの中に避難した沖縄の住民を苦しめたのは米軍の攻撃だけではない。地上戦という極限状態の中で一部の日本兵の引き起こした言動が沖縄の住民に大きな被害を与えることになる。