沖縄戦において住民たちが逃げ込んだ自然洞窟「ガマ」。そこは現在も手付かずのまま残され、無数の死者たちの遺骨が眠っている。
ドキュメンタリー映画『骨を掘る男』の監督・奥間勝也氏は、遺骨収集家の具志堅隆松氏とともにガマの奥深くへと潜入した。ヘッドライトの光だけを頼りに進む暗く湿った空間。声が闇に吸い込まれ、コウモリが飛び交う異空間には、当時の凄惨な「加害と被害の記憶」が何層にも堆積していたという。ここでは奥間氏の著書『骨を掘る男』(大和書房)の一部を抜粋。ガマで取材を行った一連の様子を紹介する。
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加害と被害の記憶
沖縄戦における日本軍の総数はおよそ10万人。そのうち2万数千人は、沖縄の男性たちを集めて急遽つくられた部隊だ。その中には、今の中学生や高校生くらいの年齢の少年少女たちで構成された「学徒隊」「鉄血勤皇隊」もあった。日本軍と行動を共にすることで加害の片棒を担いだ沖縄の人がいただろうし、住民を助けるために尽力した他都道府県出身の日本兵もいただろう。米軍に投降しようとして味方の日本兵に撃たれた兵隊もいる。「強制集団死」を生き残った人の中には、家族に手をかけてしまった自らの加害行為に生涯向き合った人もいる。
そのように、ミクロに見ていけば被害の中の加害、加害の中の被害という複雑な事態は常に起こっていただろう。だが先述したように、住民を巻き込んでの撤退戦を選択した日本軍の言動をマクロな視点で考えれば、日本軍による沖縄戦の意図が本土決戦に備えるための時間稼ぎであったことは明白である(*1)。沖縄は本土決戦のための「捨て石」とされた。
*1 沖縄戦を時間稼ぎとして捉えていたことは、日本軍側の記録からも読み取れる。主なものとして以下、3例を挙げる。
(1)1945年1月20日に大本営が定めた、日本本土決戦に備えるための作戦計画「帝国海軍作戦計画大綱」においては、「皇土特に帝国本土を確保する」ことを目的に掲げ、「小笠原諸島、沖縄本島以南の南西諸島を、皇土防衛のための縦深作戦 遂行上の前線」と規定していた。(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』〈朝雲新聞社、1968年〉)
(2)大本営陸軍部の作戦部長だった宮崎周一は、第32軍からの増援要請に対して次のような結論に達した。「沖縄への海上輸送の危険を知りながら、たとい約束があったからといっても一兵たりとも惜しむべき本土防衛兵力をみすみす海没の犠牲にすることは自分の理性が納得しない」(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』〈朝雲新聞社、1968年〉)。
(3)沖縄戦に配置された第32軍の高級参謀だった八原博通は戦後に書いた手記で次のように述べている。「19年末から20年初頭にかけて、中野学校出身の尉官級の将校数名がやってきた。彼らは、口を揃えて豪語する。『私どもは、沖縄戦に参加するのが任務ではない。沖縄戦が終わって、第32軍が全滅してから、活動を始める。沖縄を占領したアメリカ軍の行動を偵知して、東京に報告するのが任務です』」(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』〈読売新聞社、1972年〉)。
