撮影を始めた当初は具志堅さんや遺骨収集のことがわかっておらず、私は現場の一つひとつの出来事に対して逐一質問していた。それはより良い撮影をするために必要なプロセスであったことは間違いない。だが、具志堅さんは私に遮られていつもの仕事のリズムが崩されているようだった。しかし時間を共にしていると、徐々に収集現場のことや具志堅さんの話し方の癖やリズムがわかってくる。具志堅さんも私がどんなふうに撮影を進めたいのか勘づいてくる。そんなチューニングの時間を経て、私は具志堅さんのアクションに導かれ、時には必死に食らいつくようにしながら、より良いカメラポジションが決まる。

 この過程が、即興ペアダンスのように感じられるのだ。相手の身体を感じながら自分のステップを踏んでメッセージを送り、共に作り上げていく。ダンスも撮影の現場も状況は刻々と変わっていく。だから直感や身体感覚という無意識の領域で次の動きを決断することになる。しかしそれらの直感は、素晴らしい即興芸術のほとんどがそうであるように、確かな基礎技術、テーマや対象への深い理解に裏打ちされている。具志堅さんの行為が美しいだけでは成立しない。それをどう撮影するかという私の感性が具志堅さんの動きと合致して、良いショットが立ち現れる。だが、そのショットが真に正解かどうかはわからない。カメラはその瞬間に起きた具志堅さんと私のセッションの痕跡を事実として記録する。私は常に、自分が選ばなかった別のショットに後ろ髪をひかれながら現場を後にすることとなる。

 撮影された映像を編集時に見直すと、案の定、幾多の失敗に向かい合うことになる。しかし時に、具志堅さんや私の意思を超えた素晴らしいものが映っていることもある。贈り物のようなそのショットは、やがて映画のしかるべき位置に置かれることとなった。

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遺骨を掘っている時間

 撮った撮影素材を編集作業で見返し、また遺骨収集現場で撮影をする。その繰り返しはさらなる重要な気づきを私にもたらした。具志堅さんも映画の中で明言しているように、どうやら遺骨が見つかる見つからないにかかわらず、掘っている時間そのものが大切であるということだ。

「一番下まで掘ってみても見つからないこともあるし。それはそこでは誰も死んでないっていうことで。それも十分、良い結果だと思います」