印刷会社の人だと思っていた
名刺には、「スティーブ・ジョブズ 会長兼経営最高責任者」、会社名は「ネクスト・ソフトウェア・インク(NeXT Software, Inc.)」と記されていた。釋永さんには「Inc.」(Incorporated(法人組織)の略称)の文字だけが目に飛び込んできて、プレゼントされた本の印象とも重なり、ジョブズのことを、本を作った人か印刷会社の人だと思っていた。
その日の晩、釋永さんが親戚らと4人で、京都市内の店ですき焼きを食べているときのことだった。
「きょう、ジョーブツというアメリカ人がきたよ」と言って1枚の名刺を見せ、夫人と茶碗や花入れを何個も買っていったことを話した。ジョブズのことを「ジョーブツ」と発音していた。
釋永さんの姪がその名刺を見て、目を丸くした。
「なんで、叔父さんがこれ持ってんの?」
「叔父さん、この人のこと知らないの?」
当時、姪は東京の大手の商社でIT教育を担当し、役員などにパソコンの使い方を指導していた。彼女がリスペクトしている人物の名刺を、叔父が持っていることに驚いた。
「は?」
釋永さんの反応を見て、姪が聞き返した。
「えっ? 叔父さん、この人のこと知らないの?」
そう言われても、釋永さんにはわけがわからなかった。
姪が思わず興奮して叫んだ。
「あのねー、スティーブ・ジョブズが個展に来たっていうのはねー、たとえば、ジョン・レノンが入ってきてお茶碗を買ったようなものなのよ! しかも、叔父さんはジョブズとあれこれ話までしたんでしょ。コレって、とんでもないことに決まっているじゃない! わたし、会社に行ったら、みんなに言うわよっ!」
それでも釋永さんは、「ふーん」と反応することしかできなかった。姪を除く3人は、ジョブズのことをまったく知らなかった。
釋永さんがジョブズの正体を知ったのは、その1、2年あとだった。NHKの番組だったという。「あのときのあの人が、間違いなく同じ人間がいるとびっくりしましたね」
ジョブズがオーダーした作品を送ると、妻のローリーンから自筆の手紙が届いた。「特に3番と4番のカップが美しい」などと、ふたりの感想が記されていた。

