「一昨日も違う人の部屋で寝てました。私なら、いきなり関口さんが自分のベッドで寝てたら腰抜かすでしょうね」
その後、薬の効果か、関口さんの性的逸脱行為は少しずつ減っていった。一方で、身のまわりのことはどんどんできなくなった。着替えや洗濯、ベッドのシーツ交換など、職員が手伝わないとまったくやらない。さらに部屋の床でそのまま排泄するようになった。
精神科病院において、動ける認知症は厄介だ。放っておくと、寝静まった患者の部屋に無断で入る。しかもそこで排尿するものだから、全患者から疎うとまれる。こうなれば、就寝時間だけはベッドとトイレだけの保護室で施錠をしてすごしてもらうしかない。
「関口さん、歩き回って思わぬ事故につながるといけないから、夜の間だけ保護室に入ってもらいますね。ちょっとだけ我慢してくださいね」
私がそう伝えても、理解ができているのかいないのか、関口さんはほとんど表情を変えない。ただ、夜、看護師に連れられて保護室に向かう関口さんの背中は少し寂しそうだった。
「発達障害じゃないか診てほしい」
私は常勤として週4日、三王子病院に勤務するかたわら、週2日は外来診察のみのクリニックにアルバイトとして勤めている。
「休みが1日しかないんですか?」と驚かれることもあるが、30代まで週7日働いていたのでたいして苦ではない。そもそも独身で子どももおらず、趣味もない私は週2日休みがあっても時間を持て余し、ダラけて動画鑑賞に費やしてしまったりするため、働いていたほうが社会貢献できて精神衛生上もいい。
アルバイト先の「こころのクリニック三王子」はX県最大のターミナル駅の駅ビルに居を構える。ビル内にはカフェや英会話教室があり、昼夜を問わず人の出入りが絶えない。上層階フロアの通路の突き当たり、白地に淡いグリーンの文字で「こころのクリニック三王子」と記されたプレートがある。自動ドアの向こうに柔らかな間接照明に包まれた待合室が広がっている。
午後イチの診療に訪れた20代の押見裕也さんの問診票には「発達障害じゃないか診てほしい」と記載されている。三王子病院が症状の重い患者を扱うのに対し、こちらを訪れるのは比較的症状の軽い人が多い。
診察室に一人で入ってきた押見さんは短髪細身で、手にはスマホを握りしめており、肩に力が入っている様子がわかった。仕事は倉庫内での梱包作業だと言う。