さいはてに隠れていた奇跡の石垣
鞍部まで引き返し、大池方面へと降ってゆく。その先にもうひとつ、気になる遺構があるからだ。地図で見る限り備中松山城の北端、「切通及び番所跡」を目指す。
大池から先は獣道のような細い道で、凸凹も多く足元がおぼつかない。慎重に慎重に降ってゆくと、森の中の斜面に突如、横堀のような細長い凹みが現れた。
枯葉に埋もれていて初めは土塁かと思ったのだが、よく見ると石積みになっている。ということは……。期待に胸を膨らませながら回り込むと、実に見事な石垣が一直線に伸びていた。
「小」だけでなく「大」松山城も。そしてできれば端っこまでコンプリートしたい、とは思っていたが、最後にこんな「ご褒美」が待っているとは思わなかった。
横からの絵も素晴らしいが、少し降って下から仰ぎ見るのも最高だ。南は大手門、北は番所。完璧すぎる防御だ。出発点の鞴峠からだとまっすぐ向かっても30分近くかかりそうだが、わざわざ足を伸ばす価値はある。
主君と運命を共にできなかった鹿之介
話を冒頭に戻そう。上月城から連行されてきた山中“鹿之介”幸盛。備中松山城で毛利輝元の面前に突き出されたのかと思いきや、そうではなかった。
城から南へ約4kmのところに、高梁川と支流の成羽川が合流する地点がある。ここにあった「阿井の渡し」で、不意打ちをくらい惨殺されたのだ。それが輝元の指示だったのか、家臣達の独断だったのかは定かではない。享年34。
その首は輝元のいる備中松山城へと送られた。その遺骸は地元の僧が瓶に詰め手厚く埋葬したという。
写真=今泉慎一





