かつては約2万人が働く軍需工場だった

 宇野駅から少し南西に離れた玉地区に造船所ができたのは1917年のことだ。以後、三井造船の企業城下町という一面も持ちつつ歴史を刻んできた。

 

 三井造船では主に海軍の艦艇を手がけていたこともあって、日中戦争頃からは受注も増えて大わらわ。工場を拡大し、さらには人員も大幅に増やしている。

 太平洋戦争開戦前後には、2万人規模の従業員が働く軍需工場になっていた。

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戦時中に工事が始まったものの…

 そうなると、問題になるのは従業員の輸送だ。皆が近くに住めればいいが、そうもいかない。それに、呉の海軍工廠などから視察に来る人も少なくない。宇野駅から工場まではほんの4kmばかり。とはいえ、毎日歩くにしてはやや不便だ。

 

 そういうわけで、宇野駅から工場までの引き込み線が建設された。物資不足が極まっていた1944年に着工して突貫工事で建設した、などというから、三井造船の軍需工場としての重要性がうかがえる。

 しかし、せっかく着工してトンネルや路盤などの大部分が完成したというのに、敗戦とともに工事は中断してしまう。

 

 そのあとはほったらかしになっていたのだが、せっかく完成目前なのだからなんとか使えないものか、と思うのも当たり前。

 というわけで、何度か活用する鉄道計画が生まれては消え、ようやく1953年に備南電気鉄道によって宇野~玉間が開通し、結実したのである。