弟の証言「家のことはよろしく頼む、といって…」

 兄は1カ月半ほど(正確には約1カ月)前にフラリと家を出たが、「新橋・東洋軒から電話をしたが通じないので葉書きを出す。思うことあってしばらく旅行をしてくるから、家のことはよろしく頼む」といってよこしました。普段は無断で外出などしたことのない兄が不思議なことだと一同怪しんでおりました。それっきりさっぱり便りがありませんので、ますます不思議に思い、実は方々、心当たりを探していました。7日朝になって「若い婦人と死んでいたから迎えに来い」と軽井沢から電報が参りましたので、ビックリしてさっそく弟たちと義兄の山本(直良)の3人が出発したような次第です。

 兄は大正5(1916)年に妻に死なれ、いまは老母と3人の子どもとの5人暮らし。家屋敷は先ごろ売りに出しましたが、まだ買い手がありません。家内の事情は少しも心配するようなことはなく、極めて平和に暮らしておりました。今度の家出の原因は私に心当たりはあり、その女は私も知っていますが、死んだ女がその女かどうかは分からないので、いま言うわけにはいきません。その女も行方不明になっていて、家族が探しています。こういうことになると、兄は恋愛関係で死んだように思われますが、雑誌「泉」(武郎の個人雑誌)の中にも恋愛関係のことがあったと思います。遺体のそばに書き置きがあったそうですから、それを見れば原因も分かるでしょう。

有島武郎の個人雑誌「泉」の新聞広告(読売)

「東洋軒」は老舗の洋食レストランで新橋駅の建物内にあった。山本直良は正確には武郎の妹の夫で実業家。心中の現場となった軽井沢の別荘は「浄月庵」と名付けられ、直良所有の別荘の別棟だった。東日には別項で「女はー某實(実)業家の夫人 氏の作物(作品)に心酔して交際」の見出しの短い記事も。

2人が心中した軽井沢の別荘「浄月庵」(『新潮日本文学アルバム9』より)

「相手の女は某実業家の夫人で、年齢は30歳近く。平素有島氏と交際はなかったが、氏の作品に心酔し、手紙を寄せて知り合いになったものとの説がある」。東朝も「探聞するところによれば」として「麹町区に住む某大家の娘さんで、氏の思想に共鳴して氏を訪問するうちに恋に落ち、2年前から平塚で同棲していたが、2人の間に子どもができたため、深く悩んでいた」と記述。

 國民も「最近、有島氏には『細君』と言われる洋装の23~24歳ぐらいの非常な美人があった」と書いた。いずれも当時の新聞らしく、関係者の断片的な証言や近所などのうわさ話を記事にしたと思われる。

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 そして翌日、心中相手の女性の身元が各紙に報じられた。(#2に続く)

次の記事に続く 45歳小説家が“17歳下”美人編集者と不倫のすえ心中…6通の遺書に残された言葉「彼女と出会ってから…」

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