明治末期から大正時代にかけて活躍した作家・有島武郎。今から103年前、1923年6月、美貌で名が高かった雑誌記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中した。妻を亡くしていた武郎は満45歳で、満28歳だった秋子には夫がいた。

 遺体は約1カ月後に発見されたが、世間は賛否両論で沸騰し、大きな社会問題に。大正デモクラシーの時代の最後を象徴するスキャンダルとなった。それにしても、一体どうしてそれほどの騒ぎになったのか――。文中、当時の新聞記事などに現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。記事などは見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。中心人物は下の名前で表記。「有嶋」という表記も記事や資料にあるが、自筆のサインなどを根拠に見出し以外「有島」で統一する。(全5回の3回目)

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「妖女的な眼の牡丹のような女」

 1923年7月9日付朝刊各紙は、一斉に秋子の写真を載せた。読売と時事新報は前日夕刊の國民新聞(國民)と同じだが、元の写真が不鮮明だったためか、時事はかなりきつい修正を施している。ほかはまちまちだが、ここでも國民はひときわ印象深い「美貌」の写真を掲載した。

國民に掲載された「美貌」の秋子の写真

 読売の紙面には秋子についての武郎の弟・有島生馬の談話がある。

「校正が特に上手で、兄は校正を手伝わせたり、書くものの筆記を頼んだりしていました。3月ごろ私が訪ねて行った時も筆記中だったので、3人で話をしたことがあります」

 同じ日付の東朝には関係者から取材したのか、「牡丹のやうだと(うた)はれた程の秋子」という記事が。

 秋子は実践女学校を卒業する少し前から本郷曙町で英語個人教授をしていた波多野春房氏のもとに通い、いつしか師弟の間に恋愛関係が結ばれた。

「婦人公論」の記者になってからは、訪問を受ける文学者の間でその美貌が大評判で「牡丹のような」とうたわれた。派手好みで年よりは4つも5つも若く見え、世話女房じみることをひどく嫌って、収入は一切着物や装飾品に費やした。昨年の暮れごろ、同じ勤務先の男性との情事が伝えられ、夫妻の間に争いが起きたが、「事実無根」ということで済んだ。先々月、ある婦人雑誌に、波多野氏が英語教師をしていたころの醜聞が記載され、秋子がそれを波多野氏に示して離婚を迫ったこともあった。