芥川龍之介、永井荷風もとりこに
男社会を必死に生きる女性の処世術でもあったのか。東朝の記事にあるように、文学者間の評判は大変なものだったようだ。
あるとき瀧田樗陰が芥川龍之介を訪問すると、『婦人公論』の嶋中君にことづてしてください。ほかの人には波多野という別嬪がよく原稿を頼みに行くそうですが、僕のところへは一度もよこさないのはけしからんですな。今度からほかの人が来ても書かないと言ってください」と笑いながら言った。『婦人公論』の大正12年3月号の芥川の『猿蟹合戦』はこのようにして、波多野秋子が行ってもらってきたものであった。(『中央公論社の八十年』)
『大正の雑誌記者』によれば、「新聞記者 雑誌記者一切無用」の札を掲げていた永井荷風も、秋子が行くと家に入れ、後日、墨で書いた原稿を送ってきたという。「そのうち、波多野秋子が行けば、男の記者が頼んでも書かない作家も喜んで書くという噂が流れ、それにつれて、秋子が慢心しているという噂も生まれた」(『中央公論社の八十年』)。
武郎との関係もそんなことから始まった。『大正の雑誌記者』は書く。
当時、有島武郎は個人雑誌「泉」を経営して、一切の執筆原稿は他紙には発表しないと宣言して間もないころだ。「波多野さん、ひとつ有島武郎の小説をもらってきてくれませんか」と嶋中さんは笑いながら言った。無理といえばこんな無理はない。それを瀧田樗陰が側で聞いていて「嶋中君、それは君、無理だよ」と言った。それに対して嶋中さんは「波多野さん、どうです?」と聞いた。「きっともらってきますわ」秋子は嫣然(えんぜん=あでやかにほほえむ)として麹町三番町の有島邸に向かった。
秋子はその日の夕刻になって嘻々(喜々)として戻ってきた。「どうでした?」。嶋中さんが聞くと、「小説や評論は他紙には書かないと宣言してあるので、童話を15~16枚のものを書いてくださると言っていました。1週間ほどで」彼女はあっさり、ややすまして答えた。「やはり秋子さんに限る」「いやです。そんなことおっしゃっちゃ」
それを機縁として、秋子は足繁く有島邸に出入りすることになった。いつか秋子は私にだけ、有島武郎を「たけおが、たけおが」と親し気に呼んで、有島邸のいろいろな内部の事情まで話してくれた。「私がたけおと呼ぶのを他の人には言わないでくださいね」
秋子は「泉」の校正の手伝いをしたり、(武郎の)子どもの服装のほころびを縫ってやるために針と糸を持参することを忘れなかった。
さらに、秋子の夫・春房による証言が、さらなる波紋を広げていく。(#4に続く)
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