明治末期から大正時代にかけて活躍した作家・有島武郎。今から103年前、1923年6月、美貌で名が高かった雑誌記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中した。妻を亡くしていた有島は満45歳で、満28歳だった秋子には夫がいた。

 遺体は約1カ月後に発見されたが、世間は賛否両論で沸騰し、大きな社会問題に。大正デモクラシーの時代の最後を象徴するスキャンダルとなった。それにしても、一体どうしてそれほどの騒ぎになったのか――。文中、当時の新聞記事などに現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。記事などは見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。中心人物は下の名前で表記。「有嶋」という表記も記事や資料にあるが、自筆のサインなどを根拠に見出し以外「有島」で統一する。(全5回の4回目)

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 1923年7月9日付朝刊に戻ろう。東京朝日(東朝)、東京日日(東日)、時事新報(時事)は波多野秋子の夫・春房から提供を受けた秋子と有島武郎からの遺書を公開した(原文のまま)。

事件の前年3月の自宅での有島武郎(『新潮日本文学アルバム9』より)

【3通目の遺書ー秋子から春房へ】

 春房様、とうとう悲しいお別れをする時が参りました、たびたび御話し申上げる通りで秋子の心はよく解つて下さることゝ存じます、私も貴方のお心がよく解つて居ります、十餘(余)年間愛して下すつた事は嬉しく勿體(もったい)なく存じます、我儘(わがまま)のあり(っ)たけをした挙句に貴方を殺すやうな事になりました、これを思ふと堪りません

 貴方をたつた一人ぼつちにして行くのが可愛さうで可愛さうで堪りません 秋子 六月九日午前一時半

【4通目の遺書ー武郎から春房へ

波多野様 此期(このご)になつて何事も申ません誰がいゝのでも悪いのでもない善につけ悪につけそれは運命が負ふべきものゝやうです 私達は運命に素直であつたばかりです其(それ)にしても 私達は貴方の痛苦を切感せずには居られません 貴方の受けらるゝ手傷が少しでも早く薄らぎ癒えんことを祈り上げます、私達の取交はした手紙の断片は私達が如何に貴方を感じてゐ(い)たか少しく語ると思ひます然(しか)し私達は遂に自然の大きな手で易々(やすやす)と此處(処)=ここ=までさらはれて了(しま)ひました、今私達は深く心から凡ての人に謝し凡ての人に同感します現世的負擔(担)を全く償ふことなく、此地を去る私達をどうか御許し下さい 六月八日夜 列車中にて 有島武郎