「善良な妻だった」
各紙とも春房に話を聞いており、「善良な妻だった」という点は共通しているが、ニュアンスは微妙に違う。ここも「同棲十二年 善良の妻は遂に戻らず 純な性格の女だったがーと春房氏の告白」が見出しの國民新聞(國民)を引こう。「有島氏の情死の相手として選ばれた波多野秋子の夫、波多野春房氏は丸ノ内の火災保険協会の書記長で(東京)府下杉並村(現杉並区)高円寺555に住んでいる。氏は8日午後4時、有島邸で次のように語った」という書き出し。
秋子が家を出たのは6月8日だった。どれぐらい長い間、有島氏と親しんだのか、私は全く知らなかった。それは、秋子の職業が記者であるがゆえに、どこへでも自由に出かけて行ったからだ。彼女が有島氏を尊敬していたことは非常なものだった。8日の昼ごろ、中央公論が特別号を出すために忙しいから校正に行くと言って出かけ、それっきり私の手に戻ってこなかった。それから7日目に初めて有島家の人々と相談のうえ、警視庁へ捜索願を出した。
秋子は大正元(1912)年に実践女学校を卒業して大正2(1913)年に私と結婚した。それ以来12年間、私の妻として全く善良な女だった。死ぬその日まで、記者としての職を完全に尽くしていたわけだ。性格は極めて純で、しかもはきはきしていた。思うに、有島氏もその純な性格に捉われたのだろう。秋子の死因は全く私に疑問として残されている。子どものいない私はこれから一人で後始末をしなければならないが、葬儀は極めて質素に営むつもりだ。
妻を亡くした夫として妥当な談話だが、丸ごと信じていいかどうか……。春房の経歴については川西政明『新・日本文壇史第2巻 大正の作家たち』(2010年)に従おう。
福岡県芦屋町の神社の宮司で歌人の息子として生まれた。在郷時代の素行は芳しいものではない。旧制中学を出て数年アメリカに渡り、帰国後、東京・赤坂で英語塾を開いた。そこでの教え子の男爵令嬢と結婚。子どももできたが、秋子と恋愛関係になったため離婚して秋子と結婚した。その後、丸之内聯合火災保険協会に就職。書記長を務めていた。同じ読売の紙面には武郎についての経歴の記事もあり、その中で「明治39(1906)年に米国で恋愛事件のため、ピストルで脅迫されたことがあった」とされた。
夫・春房の言い分に沿った報道
この7月9日付朝刊で注目すべきは東朝の「悲しい戀に―離婚を求めた秋子 有島氏が死の決心」という記事だろう。心中を決行するまでの事情を推察している。



