明治末期から大正時代にかけて活躍した作家・有島武郎(たけお)。今から103年前、1923年6月、美貌で名が高かった雑誌記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中した。妻を亡くしていた有島は満45歳で、満28歳だった秋子には夫がいた。

 遺体は約1カ月後に発見されたが、世間は賛否両論で沸騰し、大きな社会問題に。大正デモクラシーの時代の最後を象徴するスキャンダルとなった。それにしても、一体どうしてそれほどの騒ぎになったのか――。文中、当時の新聞記事などに現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。記事などは見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。中心人物は下の名前で表記。「有嶋」という表記も記事や資料にあるが、自筆のサインなどを根拠に見出し以外「有島」で統一する。(全5回の2回目)

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 1923年7月8日発行9日付夕刊(当時の夕刊は翌日の日付になっていた)では、派遣した記者が取材した軽井沢の現場の模様と、生馬らが公表した遺書の内容、そして心中相手の女性の身元が各紙に報じられた。激烈な取材合戦が始まっていた。

 報知新聞(報知)社会部の記者だった堤松太郎の「有島武郎・情死事件」(「文藝春秋」1955年10月号所収)は「当時、事件ものでは絶対に他社の追随を許さないと自信タップリの國民新聞(國民)では、勘のいい鈴木龍二(のちプロ野球セントラルリーグ会長)や石島、結城両記者が中心になって調査した」と書いているが、確かに國民の報道は他紙より一歩先行した印象がある。

有島が残した6通の遺書

 同紙社会面トップの見出しは「有島氏の情人 波多野(秋子)夫人と判(わか)る 夫君春房氏の手を遁(逃)れて 尊敬から戀(恋)愛へ」。記事冒頭の主要部分は――。

 急を聞いて駆け付けた令弟・有島生馬、山内英夫(里見弴)兄弟によって武郎氏の枕頭に残されていた6通の遺書が打ち開かれた。

 母上と3児へ、弟妹たちへ、親友・足助素一氏=出版社「叢文閣」(武郎の個人雑誌「泉」や「有島武郎著作集」出版元)社長=へ、森本厚吉氏=友人の北海道帝大(現北海道大)教授=へ、財産の覚え書き、(心中相手の)女の遺族(夫)への6通。

 遺書によって情死したのは波多野秋子夫人と分かった。

國民は他紙より1歩早く波多野秋子の写真を載せた

 國民はただ1紙「武郎氏と情死したー波多野秋子夫人」の写真を載せた。記事は「女子学院出身 婦人雑誌記者をしていた夫人」の小見出しを挟んで秋子の身上を記す。