相手の女性は「やせ型の美人」
同じ日付の報知には「原稿の交渉から接近した 波多野女史は痩形(やせ型)の美人」という記事が見える。
「婦人公論」主幹・嶋中雄作氏(のち中央公論社社長)は語る。
「私もはっきり知りませんし、2人の間を断定する材料を持ち合わせませんが、そう言われればそうかと思われる節があります。波多野さんは確か大正7年ごろ入社され、3年ほど前から有島氏が社に寄せられる原稿の交渉に当たっておられました。
やせ型の美人で、ちょっと人を引き付ける力を持っております。性格は快活な方で、少しもこだわりのない人でした。有島さんとは社の用事以外、さして深い交際とも思えませんし、有島氏の思想や性質からみてまさかと思いますが、何も断定はできません。社の方は病気だといって先月8日から休んでいます」
実は嶋中も含めて中央公論社では2人の失踪を察知していた。遺族に配慮して控えたのだろう。
「父は戦ってきたよ」
2通の遺書は各紙とも掲載した(原文のまま)。当時は句点(。)を使わない文章が普通で小文字の「っ」も使わなかった。
【遺書1――母と3人の子供に】
けふ(きょう)母上と行三(光)とにはお会ひ(い)しましたが他の二人には会ひかねました、私には却つてそれがよかつたかもしれません、三児よ父はできるだけの力で戦つて来たよ、か(こ)うした行為が異常な行為であるのは心得て居ます、皆さんの怒りと悲しみとを感じないではありません、それでも仕方がありません、どう戦つても私はこの運命から免れる事ができなくなつたのですから、私は心からの喜びを以てその運命に近づいて行くのですから、総てを許して下さい、皆さんの悲しみが皆さんをきづ(傷)つけないやう皆さんが弟妹達の親切な手によつて早くそのきづから立去るやうたゞ(だ)こればかりを祈ります、かゝ(か)る決心が来る前まで私は皆さんをどれ程愛したか 六月八日 汽車中にて 武郎
【遺書2――弟と妹に】
弟と妹よ。永いよい共和の生活に存分私をあづからせて呉れたのを喜びます。あたゝかい思出許(ばか)りが残つています。(以下68字削除)私のあなた方に告げ得る喜びは死が外界の壓(圧)迫によつて寸毫(すんごう=ほんの少し)もうながされては居ないといふ事です。私達は最も自由に歓喜して死を迎へるのです。軽井沢に列車が、到達せんとする今も笑つて楽しく語り合つて居ます。どうか私達をしばらく世の習慣から引離して考へて下さい。たゞ母と三児との上を思ふ時涙ぐみます。三児は仲のよい三人です。三人で仲よくして居なければ寂しくてたまらない者どもです。向後も三人がどうかして常に一しょ(一緒)にありうる様。そしてあなた方の愛に浴する事ができる様合力して下さい。親愛な甥や姪にも私の変らざる好意を傳(伝)へて下さい。あなた方凡ての上にいつでもよい世界が開けて居る様。 六月八日夜 列車中 武郎


