相手は人妻の雑誌記者
波多野秋子女史は芝高輪南町53の実業家・林謙吉郎氏の庶子で明治27(1894)年10月生まれ。青山女子学院英語専門部出身で、19歳の時に波多野春房氏に嫁した。文筆に堪能で、新聞や雑誌に寄稿の傍ら『婦人公論』の記者をしている。
この見出しと記事は経歴をゴッチャにしている。秋子は下田歌子が創立した実践女学校(現実践女子学園)から女子学院に進学。卒業後に青山女学院英語専門部で学び、1918年に卒業して中央公論社の「婦人公論」編集部に入った。『中央公論社の八十年』(1965年)は「波多野秋子」の章を立てており、それによると、彼女を「婦人公論」に紹介したのは、宗教学者で「中央公論」で評論を執筆していた高島米峰(のち東洋大学長)だという。
梁につるした帯で首を吊って
現場の模様については、社会面トップを張った東朝の現地報告が詳しい。
有島武郎氏情死の現場は別荘階下中央10畳ぐらいの応接室。女は錦(金)紗(金糸を織り込むなどした薄くて軽い絹織物)藤色の夏羽織に絽縮緬(表面に凹凸のある夏用の生地)の単衣(裏のない着物)をまとい、扱帯(しごき=和装に使われる紐)を梁につるして縊死*した。有島氏は女と並んで縞の単衣着流し(羽織、袴なし)で、女の伊達巻=長襦袢(着物の下に着ける下着)や着物の襟元などを整える帯状の小物=を梁に掛けて死んでいた。女の近くには化粧品入れの手提げカバンとともに6通の遺書があった。
*縊死=首をくくって死ぬこと
他の資料によると、2人は応接室のテーブルの上に椅子を乗せ、その上に立ったという。國民の記事に戻る。
この日(7月8日)正午、麹町の有島家の奥十畳間で有島生馬、里見弴両氏が朝からの弔問客である泉鏡花、三島章道(通陽・ボーイスカウト運動で知られる)、高木(喜寛)男爵(東京慈恵会医科大学長、武郎の妹の夫)、足助素一氏らの前に2通の遺書を広げ、生馬氏が大体の経過を報告し、弴氏が遺書を読み上げた。
2通は母・3児宛てと弟妹宛てだった。生馬の経過説明の内容は東朝が詳しい。
兄が家を出ましたのは6月8日の午後4時ごろ。平素と少しも変わらず、和服を着たまま、母や居合わせた親類ともいつも通り話をして「ちょっと用があるから」と、小さな風呂敷包みを1つ持って出掛けました。その夜、帰りがないので心配していると、翌朝、新橋駅の東洋軒から「旅行してくる」という1通の葉書きが着きました。
いろいろの事実を総合して考えると、8日の夜、軽井沢へ行って別荘で自殺したのだと思われます。今月6日、かねて管理を頼んであった別荘番の男が雨の晴れ間を幸いに別荘に行って2人の遺体を発見した。その夜検視も済んで、7日夜、現地で火葬にして、けさ(8日朝)骨上げも済ませたはずです。
東朝は「武郎氏の相手の婦人が誰であるかは、『先方の夫から絶対に発表を拒絶され、その約束を破れないから』と生馬氏は一切触れなかった」と書いている。では、どこから知れたのか――。


