「おまえは人妻をこれまでも犯しただろう」「代金をよこせ」

『淋しい事實』によれば、2人が家出する前日の6月7日、大学病院に入院中だった足助のところへ武郎から「いまから行く」と電話があった後、病室に現れ、春房に呼び出されて次のように言われたと伝えた。

「おまえは有名なケチンボだそうだから、芸者を囲うことはしないで、金の要らない人妻をこれまでも度々犯しただろう。秋子は自活に困らない職業婦人だから、おまえはますます安心して誘惑したんだろう」

「それほどおまえの気に入った秋子なら喜んで進上しよう。しかし俺は商人だ。商売人というものは、物品をただで提供はしない。秋子は既に11年間も妻として扶養したし、その前にも3~4年間、引き取って教育したのだから、ただでは引き渡せない。代金をよこせ」

 その後のやりとりは武郎に言わせるとこうだった。「僕は波多野に『自分の命懸けで愛してる女を、僕は金に換算する屈辱を忍び得ない』と拒絶してやった。波多野は『それでは警視庁へ同行しろ』と言うから、僕は即座に『同行しましょう』と答えた」。波多野はたじたじとなったようだったという。

 当時は姦通罪があり、配偶者のいる人間が異性と関係した場合、女性だけが罪に問われたが、その相手は男女ともに犯罪の対象となった。結局物別れに終わったが、あとで波多野は秋子を通じて1万円(現在の約700万円)を要求してきた。

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 これに対し、8月1日付読売朝刊は社会面トップで「有島氏との會(会)見の内容を語つて 春房氏一萬円を否認」と報じた。記者に問われた春房は「ことさら弁解する必要もありますまい」「妻を奪われて1万円をもらい、それで得心したとすれば、世間は何と言って笑うでしょう。また1万や5万のはした金をもらっても、いまの私には何にもなりません。常識から考えても、妻を奪われた腹いせに金の無心ができるものでしょうか」と全面的に否定した。

「秋子の価1万円」という足助の証言を載せた時事新報
春房は「1万円」を否定した(読売)

 足助は「証人は何人もいる」と再反論したが、それまで「事実」を明らかにしなかった足助の態度に疑問を呈する意見もあり、真相はいまに至るまで藪の中だ。ただ、春房が主張した通り、2人の結婚を認めるということだったら、なぜ2人は死ななければならなかったか、という根本的な疑問は残るし、実際に全体状況から「1万円説」が定説になっている。

 そして2人の死は、世間にも大きな影響を及ぼす。(#5につづく)

次の記事に続く 作家・有島武郎と“17歳下”人妻の心中事件…日本中を巻き込んだ「死の波紋」と残された謎

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