東京朝日(東朝)と東京日日(東日)には武郎、秋子と親交があった作曲家・山田耕筰の大阪での談話がある。「妖女的な眼 それで見据ゑられると大抵の男は竦(すく)んだ」が見出しの東朝の記事は――。
「2人が恋仲だったら面白いなあと思いました」
秋子さんと最後に会ったのは、大橋房子さん(断髪洋装のモダンガールで知られた作家・大橋房、のちの「ささき・ふさ」。山田耕筰と恋仲をうわさされた)の渡欧を東京駅で見送った時でした。有島さんも見えられ、帰りには私と3人一緒に自動車に乗りました。その時、2人の様子が特別親しそうに見えたので、恋し合っているのじゃないかという気がふと浮かんで、「お雛さまのようですね」と口に出かかったが、有島さんはあんな真面目な人ですから悪いと思ってやめました。しかし、2人が恋仲だったら面白いなあと思いました。
秋子さんは派手なようで暗い人でした。妖女的な感じのする、あの黒い大きな眼で見据えられると、大抵の男はすくんでしまうでしょう。趣味が広くて、文士仲間では問題の婦人だったが、どことなく侵せないところがあった。詩に対しても相当な趣味があり、迷信と思うぐらいに九星(「一白水星」「五黄土星」などで占う古代中国から伝わる民間信仰)を信じ、朝出る時はその日の運勢を必ず九星で判断していた。石本(恵吉)男爵夫人(静枝)=のちの政治家・加藤シヅエ=らも親友で、社会事業にも興味があった。
秋子さんは恋をしても夫と何かの理解がついていたでしょうし、恋愛問題が原因で有島さんが死んだとは思えない。
秋子の上司や同僚らから見た彼女の印象は単色ではない。『中央公論社の八十年』は「波多野秋子は絶世の美人であった」「波多野秋子は変わった女であった」と書く。同僚の半沢成二は「婦人公論」1952年1月号に諏訪三郎というペンネームで、編集室に初めて現れた秋子の鮮烈な印象を書き留めている。
「扇と銀杏の葉をパラパラと縫い取りした濃紫の錦紗の羽織に銭形模様の同色の銘仙(大正から昭和初期にかけて流行したカジュアルな絹織物)の袷(裏の付いた着物)、小豆色の半襟(長襦袢に縫い付けた細長い布)からは匂やかな襟足をのぞかせ、帯は黒地にアザミを刺繍した昼夜帯(表裏が異なる布のリバーシブルの帯)」(「有島武郎の死の蔭に」)
名編集者として知られた滝田樗陰は自身が編集主幹を務めていた「中央公論」1923年8月号に本名の瀧田哲太郎で「有島さんと波多野さんの記念の為めに」を書いているが、その中で彼女のことを詳しく描写している。



