『「あの戦争」は何だったのか』がベストセラーとなった近現代史研究者・辻田真佐憲氏の新連載「『戦後』の正体」がスタートした。戦後の日本で生まれた公害病をテーマとした第4回から一部を紹介します。
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水俣病を生んだ企業から見えてくる近現代史
今年は、1956(昭和31)年5月に水俣病が公式確認されてからちょうど70年にあたる。1956年は、朝鮮戦争の特需により日本経済が敗戦の混乱から立ち直り、同年7月の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言された年でもある。だが、猛烈な経済成長は深刻な公害をも生み出した。水俣病は、戦後史に暗い影を落とす「公害の原点」となった。
そのいっぽうで、原因企業のチッソは、日本の近現代史を映し出す鏡のような存在でもあった。その歴史をたどると、“第三次オイルショック”とも呼びうる現在に連なる、日本のエネルギー問題の輪郭まで浮かび上がってくる。
チッソの歴史は、1906(明治39)年1月、創業者の野口遵(したがう)が曽木電気を設立し、翌年、鹿児島県北部の大口(現・伊佐市)に曽木水力発電所を完成させたことにはじまる。
当時の日本は日露戦争直後で、膨大な対外債務の返済が課題だった。そのため、大口周辺でも金山開発が進められており、坑内排水ポンプを動かすための電力需要が高まっていた。帝国大学(現・東大)で電気工学を学んだ野口は、そこに目をつけた。
まだ30代前半のこの若き事業家が非凡だったのは、早くもすでにつぎの一手を考えていたことだった。すなわち、発電事業だけで満足せず、その余剰電力を使って化学工業を興そうとしていたのである。
当初、工場用地は鹿児島県内の米ノ津(現・出水市)などで検討されていた。だがそこに、野口の計画を知った熊本県の一寒村が、名乗りをあげた。それが水俣だった。
