アメリカ人にサインを求められたが…

「時々、トラックに乗って大勢で町に出たりもするんですが、町の人たちはとても好意的でした。年寄りは無言で通り過ぎるけど、手を振ってくれる人も多かった。

 市民がわざわざキャンプに来て、ハンカチ出してそこへサインを求められることもありました。こっちはもう、敵愾心丸出しで、馬鹿野郎って書いて渡したり、ろくなことは書きませんでした。これも島国根性でしょうな。

 フェンスの向こうにはドイツ軍やイタリア軍の捕虜もいて、なにかと話しかけてくるんですが、言ってることがわからんし、イタリア兵はいつも陽気に歌っていて調子が狂うし、私はなるべく避けていました」

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 囚われの身とはいうものの、何不自由のない暮らしが続いた。ただ、生きて日本に帰ることはないとの思いは誰の心のなかにも澱のように溜まっていて、日常生活が快適であればあるほど、先のことを少しでも考えれば、胸が締めつけられるような気持ちになるのであった。

 酒巻もおそらくそうであっただろう。

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