真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り込み、米軍に捕らえられて「捕虜第一号」となった酒巻和男。「生きて虜囚の辱を受けず」と教え込まれた時代、半裸のまま銃を突きつけられ、独房で暴行を受けるなど屈辱の日々が始まった。
一方、日本では自分以外の乗員9人が「軍神」と崇められる中、「国の恥」として存在を消された彼は、激しい葛藤を抱えながら収容所でどう生き抜いたのか? ジャーナリストの神立尚紀氏の新刊『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全3回の2回目/続きを読む)
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「捕虜第一号」酒巻和男の人生
酒巻和男は1918(大正7)年11月8日、徳島県に生まれた。1940(昭和15)年、海軍兵学校を六十八期生として卒業、軽巡洋艦阿武隈乗組の砲術士、甲板士官(艦の軍紀・風紀を取り締まる。非常時には応急処置にもあたる)を経て1941年4月1日、海軍少尉に任官すると、水上機母艦から特殊潜航艇母艦に改装されていた千代田乗組を命じられ、第二回特潜(特殊潜航艇)講習員として訓練を受けた。
この特殊潜航艇は「甲標的」と呼ばれ、艇長(士官)と艇附(下士官)の2名が搭乗、蓄電池でモーターを回して航走する小型潜水艇である。全長23.9メートル、排水量46トン、前部に口径45センチの魚雷2本を装備する。もとは対米戦を想定し、敵主力艦を洋上で攻撃することを想定して開発され、呉海軍工廠で建造された。
酒巻が著した『捕虜第一號』によると、甲標的は潜水時の全速力24ノット(時速約44キロ)で、〈潜水艦としては、当時世界最高の速力を有していたはずである。〉という。ただし、全充電状態でも航続力は、全速で1時間半(36浬=約67キロ)、最微速4ノット(時速約7.5キロ)でも25時間(約100浬=約185キロ)にすぎない。また小回りがきかず、重い魚雷を発射するとバランスがくずれて艇首が跳ね上がり、外を見る手段が潜望鏡しかないこともあって操縦がむずかしい。
酒巻たち士官12名、下士官24名の第二回講習員は、第一回講習員として訓練を受けた岩佐直治中尉(のち大尉、戦死後中佐)の指導のもと、三机で訓練を受けた。三机は佐田岬半島ほぼ中央に位置する漁村で、波が静かで人の出入りも少なく、秘密兵器の訓練には最適だった。



