9人の「軍神」と1人の「国の恥」
日本では、1942年3月6日午後3時の大本営発表で、特殊潜航艇の存在と、真珠湾攻撃のさい戦死した、酒巻をのぞく「特別攻撃隊」の9名の二階級進級が公になった。翌7日の新聞各紙は一面トップで彼ら「九軍神」を顔写真入りで報じ、朝日新聞では作家の吉川英治や詩人で文芸評論家の三好達治が弔文を寄せている。
1隻2名の乗員で「九軍神」とは? と疑問をもつ人も多かったが、なぜ9名なのかはいっさい公表されない。一緒に訓練し、出撃した9名は「軍神」となり、酒巻は「国の恥」としてその存在を抹消された。海軍は酒巻を辞令上横須賀鎮守府附のままとし、1944(昭和19)年8月31日付で予備役としている。真珠湾攻撃における甲標的の戦果はなかった。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という、近代日本の軍隊の道徳律を表すものとして広く知られている言葉は、1941年1月、東條英機陸軍大臣の名で陸軍内部に示達された「戦陣訓」の一節に過ぎず、海軍はこれには縛られない。
そもそも陸海軍には「俘虜査問会規定」という規則があって、軍人が戦闘で捕虜になりうることは想定されていたから、示達にすぎない「戦陣訓」の教えは絶対的な拘束力を持つほどのものではない。戦中、海軍に籍を置いた人のなかには、陸軍にこのような示達があったこと自体、知らなかったという人が多い。
――だが、当時の一般的な日本人の通念とすれば、やはり、捕虜になることは「恥」だった。「戦陣訓」のなかった海軍でも、将兵に対し、捕虜になること、なってしまったときの心構えなどを教えることはなかった。捕虜を、最前線で義務を果たした戦士として、むしろ英雄的に扱う西洋的価値観とは正反対の「気分」が、理屈抜きに醸成されていたと言えるだろう。
「九軍神」の葬送は1942年4月8日、日比谷公園で合同海軍葬として大々的に営まれた。遺族84名と嶋田繁太郎海軍大臣、永野修身軍令部総長以下数千名の将兵が列席し、霞が関の海軍省正門から日比谷公園までの沿道は、軍神たちの葬列をひと目見ようとする群衆であふれた。


