暴動を抑えるリーダー

 戦況の変化にともない、米本土の収容所には次々と日本人捕虜が運ばれてきた。リビングストンキャンプでは、ミッドウェー海戦で沈んだ空母飛龍機関員36名、重巡三隈乗組員2名、1942年4月18日、米軍による本土初空襲のさい、敵空母発見を報じて撃沈された監視艇の乗組員4名など50人と合流した。酒巻は彼らの口から、真珠湾攻撃の戦果と「九軍神」のことを知った。

 二度めのマッコイキャンプには、ガダルカナル島をめぐる戦いで捕虜になった者がやってきた。なかには1943(昭和18)年4月7日、ガダルカナル島攻撃に出撃したさい米軍戦闘機に撃墜され、同乗の下士官とともに捕虜となった、酒巻と海軍兵学校同期の艦上爆撃機搭乗員・豊田稔中尉など旧知の者もいた。豊田は戦後、中日新聞で記者を務めながら「豊田穣」のペンネームで作家となり、1971(昭和46)年、自伝的小説『長良川』で第64回直木賞を受賞する。

 豊田とともに捕虜になった祖川兼輔上飛曹は戦後、航空自衛隊に入隊したが、退官後の1976(昭和51)年、割腹して自ら命を絶った。祖川は、捕虜となった呵責に戦後31年を経てもなお、さいなまれていたという。

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『捕虜第一號』(新潮社)を出版した酒巻(写真:時事通信社)

 私がかつて取材した人のなかに、マッコイキャンプで酒巻と一緒だった人がいる。1943年1月25日、ソロモン諸島で不時着、味方のふりをして近づいてきた現地人に騙され、連合軍に売られて捕虜になったベテランの零戦搭乗員・中島三教飛曹長である。中島の回想――。

「マッコイでは、真珠湾攻撃の特殊潜航艇で捕虜第一号になった酒巻和男少尉と会いました。しっかりした人でマッコイキャンプのリーダーでした。英語も堪能でしたし、アメリカ側からも信任されて、彼だけは自由に町に出たりしていました。酒巻さんがしっかり抑えてたから、マッコイでは捕虜たちの統制が保たれて、カウラ収容所のような暴発は起きなかったんだと思います」