厳寒の収容所で乾布摩擦
ホノルルの施設に連行された酒巻は、捕まったときの半裸の姿のまま取り調べを受けた。
米軍士官は「君たちの手柄は立派です。昨日、『アリゾナ』を始め、アメリカの戦艦が3隻沈みましたよ」と言い、紳士的な態度で酒巻に接した。酒巻は自分の官姓名を名乗り「殺してくれ」と懇願したが拒否され、裸のまま毛布にくるまれ独房に入れられた。
この独房で、酒巻は侵入してきた数名の米兵から激しい暴行を受けた。『捕虜第一號』には書かれていないが、帰国後の1946(昭和21)年4月23日、横浜で開かれた、日本の捕虜収容所長を裁くBC級戦犯の法廷に、捕虜虐待の証人として出廷した酒巻は、このときの米兵による暴力行為について証言している。
ただし米側に不利となるこの証言は証拠として採用されずに記録から抹消され、酒巻はただちに退廷を命じられた。このことは当時、傍聴した新聞記者が書いた記事に残されているのみである。
1942(昭和17)年2月下旬、酒巻の身柄は米本土に移送され、ウィスコンシン州のマッコイキャンプ、テネシー州のフォレストキャンプ、ルイジアナ州リビングストンキャンプ、再度のマッコイキャンプを経て、終戦直前にテキサス州ケネディキャンプに収容された。
最初に厳寒のマッコイキャンプに移された頃には、戦友を思い、祖国を思い、捕虜となった自分を恥じて、温かい湯もストーブも拒み、ベッドに横たわることもせず、ひたすら頭から冷水を浴び、乾布摩擦をしていたという。
見かねた米軍の収容所長が「欲しいものはなんでも言ってくれ」と言ってきたとき、酒巻は「鉛筆と鉛筆削り、ノートと図書館の本、毎日の新聞だけはぜひ欲しい」と答えた。中学校と海軍兵学校で英語を学んできたが、以後、酒巻は英英辞典を手に、毎日の新聞で戦況やアメリカの世相を知ることになる。
リビングストンキャンプでは、収容所長ウィーバー大佐の、〈「海軍大尉の弟はサボ島沖で戦死した。そのとき私は日本兵に激しい憎悪を感じたのである。しかしアストリア号(重巡洋艦)の乗組員だった弟は、齋藤駐米大使逝去のさいその遺骨を送って日本を訪れた。日本の朝野から非常な歓待を受けた彼は、途方もなく喜んで、桜咲く日本を称揚していたのである。しかしその弟は、アストリア号と共に日本軍によってソロモンの海に沈んでしまった。私は、弟の死から言えば、日本人は憎い敵国人である。しかし、弟の自慢した日本人は明るい友邦人であった。収容所司令官たる私は、真の日本人を理解し、その職務を全うしたい考えである」〉(『捕虜第一號』より)との言葉が心に残ったという。


