「もう少し早く貴女を知っていたら」
ここで隊員の士官たちの宿舎になったのが岩宮旅館である(下士官は松本旅館)。女将・岩宮千代の回想によると、彼らは、「底抜けに朗らかで、いつも笑いが絶えません。しかし時間が来ると、どんなに興が乗っていてもピタリとやめるあたり、さすがに折り目正しい生活態度であった」という。
また、千代の次女・緑は、岩佐中尉にダンスを一緒に踊ろうと誘われ、男の人と手をつないだこともなかったので逃げ回ったが、「でも、いくら騒いでいても、酒に酔って狂われるということはなかったですよ」と振り返っている。
1941年9月上旬、千代田艦長・原田覚大佐は、岩佐中尉をつれて連合艦隊旗艦長門に山本五十六司令長官を訪ね、真珠湾攻撃作戦に甲標的を参加させるよう具申した。
山本は、攻撃後、収容の見込みのない計画は採用できないとこれを却下。岩佐らはさらに帰投手段の検討を重ねて具申を繰り返し、山本もついに折れた。5隻の甲標的が潜水艦に搭載されて真珠湾近くで切り離され、湾内の米艦を攻撃することになったのだ。
三机を去るとき、隊員たちはいつも訓練に出かけるときの「行ってきます」ではなく「行きます」と挨拶し、岩宮旅館を発ったという。生還を期さない覚悟を秘めた別れの言葉である。岩宮緑は、「岩佐中尉さんがお別れの夜、私の手をしっかり握られ、『世が世ならね』と申されたのです。そして『もう少し早く貴女を知っていたらね』と。私はいまだにその言葉が忘れられません」と、戦後、三机を訪ねた隊員の遺族に語ったという。


