『ちいかわ』作者・ナガノが象徴する“闇”と“希望”
多くの感想の中には「ちいかわはキュートアグレッションだ」という批判もある。可愛いものをグロテスクな暴力と対比させる、という表現は20世紀からずっと日本のサブカルチャーの中にあり、ナガノ氏も数少ないインタビューで「カマキリの雌が雄を食べてしまうような残酷さに引かれる」と答えたこともある。「ちい虐」や「ナガノの闇」と言った言葉もSNSでは流れる。
だが筆者が観客として感じるのはむしろ、「かわいいカルチャーと残酷な現実」というテーマを作品の核にすえ、大企業に対して徹底して意見を通すほどの強い意志を持ちながら、ナガノ氏が「残酷な現実」の方に一方的に傾斜することに対してきわめて自制的であるということだ。映画パンフレットの裏表紙にある鱗の背景に、費用をかけてレリーフで刻んだ水飛沫が、人魚の撲殺の血痕にも見えるし、自然に帰った波飛沫にも見えるように、ナガノ氏はつねに「かわいさと残酷さ」の間でどちらにも傾斜しすぎないバランスを取ろうとする。
『ちいかわ』の人気はいまや、中国はじめ世界に広がっている。率直に言って、SNSから生まれた一人の作家がこれほど大きなプロジェクトを自分の意志でコントロールする力を手にしたことは、日本のコンテンツ史上で稀である。
そしてクールジャパンをはじめとする政府のコンテンツ振興策は、インボイス制度を見ればわかる通り、決して個人の小さなクリエイターに対して支援的ではない。コンテンツ産業のみならず、製造業や飲食業においても、個人営業や中小企業は大企業のチェーンに統合され効率化されるべきだ、と考える人々は以前からいる。
だが、『ちいかわ』はそうした効率的なテレビ局や広告代理店のマーケティング戦略ではなく、個人クリエイターのSNS投稿から始まった非効率で非統合的な、だからこそ世界中の「個人」の心に届く作品だ。
『紙兎ロペ』や『100日後に死ぬワニ』など、21世紀に入ってネット発のコンテンツはどれもそうした個人と企業の構造の中で戦ってきた。メジャーなメディア展開によって世に知られたが、初期の持ち味を失った作品もあれば、メジャー資本の展開の仕方がSNSの誤解や反発を招いた作品もある。
だが、多くの個人クリエイターたちが試行錯誤しながら、大資本と個人の作家性にどう距離をとるのか、という経験を積み重ねた末にナガノ氏の徹底したクオリティコントロール、そして今回の『ちいかわ』の興行的成功がある。ナガノ氏はそうした戦いを初めて突破して自分の作品をコントロールする力を獲得した「個人クリエイターのサバイバー」であり、多くの個人クリエイターたちにとって互いにライバルでも戦友でもある存在のように思える。
ナガノ氏が最初に出版した角川版元のエッセイは今も復刊がされておらず、その背景は推して知る形になっている。多くのファンが『ちいかわ』にシンパシーを感じるのは、我々の社会で大資本に翻弄されがちなフリーランスであるナガノ氏という作家が何と戦ってきたか知っているからである。
作品批評というものは、作品の中でセリフとして叫ばれるものだけを「メッセージ」や「教訓」として受け取るものではないはずだ。これだけの賞賛が集まる中、生年月日も出身地も学歴も、自分のことについてほとんど語ろうとしない作者が2017年から2018年にかけて「ナガノは女です(ガッカリされたらごめんなさい!)」とそれぞれ別の相手に三度答えたのはなぜなのか。なぜフジテレビや東宝という巨大企業のマーケティングを超えて一人の女性クリエイターが多くの子供の心をとらえ、男女問わない多くのファンや同じように苦闘するクリエイターたちが彼女を自分たちのヒーローのように仰ぎ見るのか。そこに目を向ける学問、批評であってほしいと思う。
映画の第二弾特典は、ナガノ氏と同じように小さな企業から巨大なヒットとなった株式会社クーリエの「ボンボンドロップシール」である。大人気の中、簡単に用意できる特典グッズではないが、おそらくこの選定にも、原作者の感性、そして決断が関わっているのだろう。
映画は爆発的に動員を伸ばし、日本アニメに大きな一歩を刻もうとしている。映画館ではちいかわやハチワレと同じように、現実と向き合いながら生きる多くの個人が「なんか小さくてかわいいやつ」ちいかわたちに声援を送るだろう。「なんとかなれーッ」と、心の中で残酷で理不尽な世界に対して叫びながら。

