また、私は取材を重ねていくうちに、松永の性格に親近感を抱くようになった。
過去の松永のように、私は友人の誕生日を覚えられなかったり、時間を守れなかったりする。しかし、それとは真逆に、何百回取材しても彼の心情は理解できないと思い知った出来事があった。
真菜さんと莉子ちゃんの遺体の写真を見たときのことだ。
写真の詳細は控えるが、とにかく二人の「死」や、松永の苦悩に対する理解がいかに表層的なものだったかを思い知った。
真菜さんと莉子ちゃんの写真や育児日記などを通して、何度も二人の「生」に触れるうちに、「死」を抽象的にしか理解していなかったのだ。ただただ、遺体の写真を見た私は「こんなことはあってはならない」という言葉を頭の中で繰り返した。松永が遺体の写真を見られなかった理由に、私はようやく気づいたのだ。
都会の片隅で静かに暮らし、公園で楽しく遊び、仲良く帰宅する途中だった母子。その何気ない「日常」をあの瞬間に寸断し、根こそぎ奪った交通事故の現実がそこにあった。
「沈黙したら全て終わりじゃないですか」
写真を見た翌日の夜、松永の自宅近くの公園で彼と落ち合い、二人の遺体の写真を見たことを告白した。そして、「おそらく、私はあなたのことを理解できていない。これからも理解できないかもしれない」と率直に伝えた。
松永は、私が遺体の写真を見たことについて、「僕は見ることができないけど」と言い、しばし考えた後、冷静に滔々と語った。
「いくら時間があっても、どれだけ言葉を尽くしても、理解できるわけないんですよ。僕が逆の立場でもそうだから。でも、沈黙したら全て終わりじゃないですか。だから、自分の経験したこと、考えていることを伝えつづけるしかないんですよ」
松永は伝えることの限界を知りながら、それでもなお自らを開示し、遺族の現実を伝え続けている。