橋上コーチの指導の列に阿部慎之助も

 さらに松尾氏は11年、橋上代行を球団に招くことを提案。清武元代表と二人の出会いの場として橋上代行のチームとの交流試合を設定した。だが橋上代行のコーチ就任発表直後、清武元代表は解任され、松尾氏とも別れの日がやってきた。

 清武元代表は球団を離れてから、松尾氏に意識的に連絡は取らなかった。実際に、「社内で『行確(こうかく)(行動確認する者)』と呼ばれる尾行役が付くこともあるから、気をつけて」と忠告してくれる友人もいた。「自分と親しかったり、気持ちが通じていたりしたことが球団にわかると、本人に迷惑がかかるだろう」「それでも、いつか再会できる日が必ず来ると信じていた」、「ずっと気にかかっていた」と思い返す。

 だが運命はあまりに残酷だった。23年1月、松尾氏は敗血症で突然死する。58歳、まだまだ若い年齢だった。再会は果たせなかった。

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 清武元代表が去った巨人軍は12年4月、5位と最下位を繰り返す。遠征先の芦屋市内のホテルのベランダでは、夕食後、坂本勇人選手ら数人が真剣な表情で素振りをしていた。しかし勝てない。

 見るに見かねた橋上代行(当時一軍戦略コーチ)が、打者別に教えるスケッチブック10冊ほどを持ってくるようになる。選手ごとに、予告先発投手のどの球を狙い、どの球を捨てるかを図で示していたという。

 ベンチ入りする他のコーチのようなユニフォームを着ていなかった橋上代行は、ベンチではなく、試合直前のサロン室で教えた。報道陣や観客の目の届かないところでチームを変えていこうとしていた。

「あの投手の場合、今まで打てなかった低めの、この球は、あえて見逃していい。三振でもかまわない。その責任は私たち首脳陣が取る」。原辰徳監督(当時)に許可を得た上での、斬新な提案だったという。試合直前のサロン室には、毎試合7、8人の行列ができた。前方に阿部慎之助選手(当時)が並んだ。

戦況を見つめる橋上監督代行 ©スポーツ報知/共同通信イメージズ

“スケッチブック作戦”の成果なのか、すぐに開花する選手も出てきた。選手らに笑みが広がる。「神様、仏様、橋上(神)様」。岡崎郁ヘッドコーチ(当時)がロッカー室から出てきて、橋上代行を茶化した。なぜか別のスタッフも、対抗してか、 “個別打撃講習会” を始めたが、選手はその列にはあまり並ばなかった。