毛沢東の暗殺計画に失敗し、軍用機でモンゴル上空へと逃亡した林彪一家。だが、機体は突如として墜落し、現場には9体の無残な焼死体が残されていた。公式見解とされる「燃料不足による事故」は真実なのか。事件のその後を、鉄人社の新刊『世界の要人暗殺ミステリー』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目)
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毛沢東爆殺計画
1970年7月、毛沢東がいよいよ林彪派の粛清に乗り出すと、空軍作戦部副部長の要職に就いていた林彪の一人息子、林立果は秘密裏にクーデターを画策。1971年3月、地方視察中の毛沢東を爆殺し、広州で新政権を樹立することを記した計画書「五七一工程紀要」(「五七一」は「武装蜂起」を意味する隠語)を作成する。
5ヶ月後の同年8月、南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」として猛烈に批判したことを機に、林立果らは9月5日に毛沢東の乗った専用列車を爆破する暗殺計画の実行を決意。
父母や側近らと計画成功後のクーデターの準備のために河北省北戴河に移動する。計画では、毛沢東暗殺成功の暁には北戴河から北京に戻り副主席の林彪が毛沢東主席の後継者に就任、逆に失敗の際には広州で林彪を首班とする新政権を樹立、もしくはソ連へ亡命する予定だった。
