「ショーケンとの共演は、物凄く勉強になった。彼は我々みたいに計算して役作りするんじゃなくて、研ぎ澄まされた感性で演じるんですよ」
ミュージシャンから俳優に進出したばかりの萩原健一との共演時のことを、前田吟はそう振り返っている。
一九六〇年代までは俳優といえば、劇団や伝統芸能、映画会社といったバックボーンで演技の基礎を積んだ上で映画やテレビドラマに出演することがほとんどだった。彼らは台本を読み込み、そこに書かれたことを忠実に演じるために腕を磨いてきた。結果として作り手側も共演者も、観る側も、「その役者がどんな演技をしてくるか」をある程度は読むことができる。
萩原は演技経験をほとんど経ずに役者の世界に飛び込んだため文字通り「型破り」な、異端児といえる存在だった。時には台本に書かれた芝居やセリフを現場で己が感覚の赴くままに変えていったという。
その読めない芝居の刺激的で不穏なスリリングさ、そして、「計算」されていないからこそ表現できる生々しいリアルさが新鮮な感動を呼び、七〇年代以降の映画やテレビドラマにおける俳優の演技のあり方をも一変させる。
そんな萩原を俳優として世間に知らしめた作品が、今回取り上げる『約束』だ。
物語は、冬の日本海を走る列車の車内から始まる。互いに秘密を抱えた女(岸恵子)と男(萩原)はそこで出会い、心を通わせ合う。それは、わずか三日間の出来事だった。
斎藤耕一監督らしい詩情あふれる映像と切なげな音楽をバックに、二人の触れ合いが儚(はかな)く映し出される。そして萩原は、演技をまるでしていないかのような、どこかから連れてきた青年がそのままそこにいるかのような姿でたたずむ。しかも一方の岸が、絶えず女優然として凜といるため、素材そのままに見える萩原が一段と際立っていた。
役柄自体は、本心で何を考えているのか、どこへ向かい何をしようとしているのかが全く見えてこない。それが萩原の、ともすれば自由気ままに動いているともとれる芝居と相まって、男の姿を一段とミステリアスなものにしていく。しかも、ただ謎めいているだけでなく、人なつっこく、それでいて寂しげな、そんなペーソスも醸している。
驚かされるのは、ラストだ。全ての秘密が明らかになった時、そうしたミステリアスさとペーソスとが伏線となり、痛切に響いてくるのである。
この人は本当に計算しないで、感覚だけで演じていたのだろうか――。そう思わされた。その種は明かされないまま、旅立ってしまった。それはそれで、また彼らしい。