校則が厳しいのに「生徒の自主性を重んじる校風」と書いてしまう素敵な状況について
みんな、口では「子どもの教育は大事だよ」と言うのです
画一的な教育を続けてきたことへの総括は?
翻って、文部科学省もようやくそういう我が国の初等中等教育が抱える諸問題に気づいて、いまさらになって文科大臣である柴山昌彦さんの名前を冠した「柴山・学びの革新プラン」なるものを発表するようになりました。
「新時代の学びを支える先端技術活用推進方策(最終まとめ)」について
http://www.mext.go.jp/a_menu/other/1411332.htm
でも、ここのお題目に掲げている「多様な子供たちを『誰一人取り残すことのない、公正に個別最適化された学び』の実現」という内容は、まさに大部屋での教育を明治維新以降脈々と続けてきた日本の文部科学行政が光を当ててこなかった部分ではないかと思うんですよね。それも、大部屋の教室で、一斉に全員が同じことを学ぶ、画一的な教育を続けてきたことへの総括も反省も評価も弁明もない。
「子どもの個性が大事だ」と言いながら、決まった制服、同じような授業内容、厳しい校則で縛り上げて、できる子どもほど学校の外に良い教育を求めて塾に通ったりネットを駆使したりする。子どもが抱える悩みや求められた助けに気づいた家庭が学校から子どもを引き剥がしてあげることでようやく家庭と子どもが自主性を発揮したはずが、不登校は悪だという単純な図式をもとに登校を促し、また、学校の現場だけでなく教育委員会も平然と「いじめはなかった」と認定してしまうような体たらくを繰り返すことで、いままでどれだけ多くの子どもたちが輝ける幼少時代を辛い記憶に塗り染めていまを生きてきたかについて、もう少し思いを致す必要があるんじゃないのかなあと思うのです。
実に悲しいことです
また、時を同じくして経済産業省も「未来の教室 EdTech研究会」と題して、最先端の教育技術と生徒参加型のSTEAM教育のような手法、さらにプログラミング教育や人工知能を活用した個人の学び方の話まで突っ込んでいろいろと議論が深まっています。ここだけ見ると、文科行政のシマを荒らされたくない文科省が、先行した経産省のプロジェクトでの検討内容を表面だけパクって中教審に諮問ぶん投げて、無理矢理「柴山プラン」として仕立て上げただけなんじゃないかという微妙な疑念すら持ちます。
文科省だけがおかしいわけではないけれど、長らく日教組との闘いもあって教育の現場を日干しにした結果が、むしろ多様な生徒をマネジメントする機能を失った教育組織が事なかれ主義をこじらせて生徒に厳しい校則を守らせることでしか規律を維持できなくなっている姿を思い浮かべさせてくれます。実に悲しいことです。
令和の教育改革に向けた、「未来の教室ビジョン」をとりまとめました
「未来の教室」とEdTech研究会 第2次提言
https://www.meti.go.jp/press/2019/06/20190625002/20190625002.html
この辺の話を見ていると、いまの日本の教育は義務教育だけでなく、高校、大学入試、大学、さらには科研費の分配や論文数の低迷のところまで、相当な制度疲労を起こしていて、どこから手を付けたらよいのか分からないぐらいの状況になっているのではないでしょうか。仮に世界的な学力比較のPISAが高かったからと言って、日本の科学技術や国民全体の学識のレベルが上がっているとはいえないとも思えます。