実際には声の大きい人が勝つという不条理
そんな私の恥ずかしい経験も含めて中学に「講師」として舞い戻った甘酸っぱい話は別のところで書いたわけなんですが、頂戴した反響の中に「学校は、学校内での苦しさを生徒が『自主的に』救済しようとすると邪魔ばかりされる環境だ」というメッセージがあり、膝打ちをしました。学校と言わず、一般的な職場でも、あるいは町内会やマンションの管理組合でも、必ず誰かに「伺い立て」をし「根回し」してから「承認された」風の空気感を得てはじめて前に進めるという、実に風通しの悪い閉塞感の原因になっておるよなあ、と。
そこには、誰もが「公平」に扱われるべきだという建前と、実際には声の大きい人が勝つという不条理とが混在し、社会ではそういう理不尽を受け入れるのが大人として当たり前であるというブラック企業なみの刷り込みがあるように感じます。
「おまえ、noteぐらいやっとけよ」と若者に煽られる選ばれし者の記憶|山本一郎(やまもといちろう)|note(ノート)
https://note.mu/kirik/n/n8c8f00c47ce5
それもこれも、大部屋で机並べて先生が前で講義し、それを生徒が揃って聞き、板書をノートに書き記して出された宿題を粛々と提出することが「勉強である」という、子どもにとって「平等な」日本の教育の情景の伝統が送させている部分もあるのではないかと思うわけです。
真の平等なんてどこにもないんじゃないか
学校も社会も平等であるべきなのに、実際には違います。人間関係がより流動的であった中学受験の学習塾ではいじめなんてものは起きようがなかったし、草野球でも部活でも固まった人間関係ができるたびに必ず誰かが攻撃の対象になったり陰口を言われたりして、最後は「あいつはああいうやつだから」と突き放された結果、その場にいられなくなって辞めていくという経験則を持っています。
固まった人間関係があまり持てない大学文系の教養課程はノートの貸し借り程度の付き合いでも充分勉強することはできたし、より高度な勉強をするはずのゼミではやはり「あいつはおかしい」と外される奴が出て、留学先の寮では異国文化に慣れ親しめない留学生はやはりルームメイトから邪魔者扱いされて週末に街中に出るための車にすら乗せてもらえないとかいう事態が起きる。それが人間の性だとするならば、異質なものを異質と認識した途端にハネたり外したりするのもまた避けられない宿命なんだろうと思うわけですよ。人間の織り成す社会において、真の平等なんてどこにもないんじゃないかとすら思います。
中学受験をする教育熱心な家庭が公立で子どものいじめに遭い、同じく受験を志す家庭の多い私学に編入しようとしたり、どうせ学校の授業は受験の役に立たないからと不登校上等で塾通いをメインに据えて学校に呼び出される保護者みたいな話を聞くにつけ、家庭環境と子どもの自主性・自律性とが学校と合わなかったときの選択肢をもっと自然に増やせないものかと思うわけです。その子どもの資質や、家庭の環境、目指すべきものが違えば、当然環境もそれに合わせてあげないと、可哀想なのはその子どもの精神です。