昭和14年5月12日払暁に来襲したソ聯軍を迎えて火ぶたを切ったノモンハンの徹底的敗北を軍事通たりし筆者がその裏面史を描く

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「ノモンハンの敗戦」(解説を読む)

 関東軍には以前から一種の悪癖があった。陸軍省、参謀本部を小馬鹿にしたり、時の政府の方針など屁とも思はず、自分たちのやりたい放題のことをやる。それが日本として対内的にも対外的にもどんなマイナスになろうと知らぬ顔で通そうとする気風である。

 この関東軍の悪癖は軍部全般に伝染し、やがて日華事変を巻き起すのであるが、それは本題から外れるので省略する。とに角、昭和初頭、高級参謀河本大作大佐が軍司令官や参謀長にも内緒で満洲王張作霖を暗殺し、田中義一内閣を瓦解に至らしめ、次いで間もなく満洲事変を惹き起して成功してからは関東軍はいよいよ本領(?)を発揮して張皷峯事件から、ノモンハン事件に発展させたり、満洲国協和会問題で中央に楯ついたり手におえぬ狼籍振りを見せた。その中のノモンハン事件をとりあげて解剖してみよう。

張作霖爆破事件 ©文藝春秋

国境線の侵犯から起きた紛争事件

 ノモンハン事件というのは、外蒙と内蒙(満洲国)との国境線の侵犯から起きた紛争事件である。外蒙と内蒙と区分はしても、元々広漠果てない蒙古平原にソ聯とか、日本とかが人為的に線を引っ張ったのだから、住民の蒙古人にとっては迷惑この上もない障害線である。

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 中国のチチハル省に近い所にハルハ河という幅3、40メートルの河が流れている。蒙古平原は沙漠と草原地帯である上、降雨降雪が少なく飲料水に乏しい。偶々湖水があっても塩分が多くて飲めない。井戸も少ない。少ない井戸もボウフラがわいていないと蒙古人は飲まない。ボウフラのわくということは、その水に塩分のない証拠となるのである。ところで、このハルハ河の水は塩分がなく、飲料になる。そこで蒙古人にとつては非常にありがたい河である。昔からこの河を独占しようとして、蒙古人同志で幾度も戦争をしたことがある程である。

蒙古 ©文藝春秋

 その大切な河を満洲国はこれが内蒙と外蒙との境界だと決めた。満洲国成立前には外蒙の所領になっていたので、外蒙側は怒った。怒ったけれども取かえすとなれば、河の向うには満洲国軍が頑張っている。これを外蒙独自の力で破ることはむつかしい。満洲国軍の後には関東軍が控えている。下手に手出しをしてはならぬとソ聯側から強く手綱を緊められていたので、7、8年来隠忍していたのである。そこにクレムリンから「もうよかろう、取りかえせ」と命ぜられたので、一挙に河を渡って満洲国領内になだれこみ、満洲国軍を追払って旧領のノモンハン附近まで占領した。それが昭和14年5月12日の払暁である。

 第23師団はハイラルに司令部を置き内蒙の鎮護に就いたが、師団としての戦力は頗る貧弱なものであった。けれども既に国境侵犯事件が起きた以上、否応なしにこれを撃退せねばならぬ。師団長小松原道太郎中将は直ちに事件の内容とこれが対処方策を関東軍司令部に報告し、飛行隊の出動を促すと共に騎兵第23聯隊長東八百蔵中佐に外蒙軍の撃攘を命じた。