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 タムスクの爆撃は果してソ聯側を刺戟した。まさか内陸深く侵入して来るとは考えていなかったらしい。モスコーと現地との間には無電が引っきりなしに交換されている。極東軍司令官は殆どぬきにして、直接クレムリンが戦闘を指揮している模様である。暫くの間は敵の機影を見ることが少なかったが、やがて前に倍した新鋭機が投入されたらしく、戦場上空の制空権は再び敵手に委せられた。わが方の戦闘機が如何に高性能であっても、搭乗者の技術が優秀であっても、連日休む暇なき邀撃に人も機も疲弊困憊し、次第に損害が大きくなる。制空権を奪われては地上軍の作戦は滅茶滅茶になる、1台の乗用車、トラックにも敵機が跳りかかって銃爆撃をする。一樹の遮蔽物もない草原、沙漠では身を入れるだけの蛸壺壕を掘ってかくれるより仕方がない。折角据えつけた砲門も1発放てば忽ち敵戦車や砲弾のよい目標になる。

ノモンハン事件 ©文藝春秋

殺されても、水を飲めた者はまだ幸福だった

 第一線の将兵が最も苦しんだのは飲料水の欠乏である。応急的に掘った井戸水をトラックで配給しようとしても敵機の目をかすめることは容易でない。真夏の昼は気温が上昇して口はカラカラになる。軍服は体内から発散する汗の塩分が乾いて真白になってしまう。馬も喘いで動けなくなる。敵弾に傷ついた将兵は「水、水、水」と叫びながら息を引取ってゆく。水筒1本の水で1日、どうかすれば2日我慢せねばならぬ。中には辛抱しきれず夜ひそかに敵陣を突破してハルハ河に辿りつき、腹一杯水は飲んだが、敵に発見されてそのまま殺される者もある。それでも水を飲めた者はまだ幸福だった。河に到着しない前に発見されて、あの世に送られた者も多い。戦友の屍を発見して先ず手に触れるのは水筒である。中に水のあるかないかが最大の関心事であり、如何にも辛抱できないと自ら銃を口中にふくんで自殺する者も出る。戦場の悲惨は到底筆舌の尽し得る処ではない。

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これ以上の積極攻撃は不可能

 この惨状をよそに関東軍司令部では小松原師団長を鞭韃して、地上軍による大攻勢計画を進めた。7月1日を期してハルハ河を渡り、敵を国境外に駆逐しようとするものである。攻撃は順調に進んで一旦ハルハ河を渡って敵を圧迫したが、間もなく敵は逆襲に転じた。幾100輛とも数えきれぬ戦車が右から左から、縦横に狂いまわる。火炎壜や地雷では粉砕できない。200メートル300メートルの至近距離に引きつけて砲弾を浴びせる外はないのである。しかも弾薬も補給が十分でない。百数十輛に及ぶ敵戦車を潰したが味方の損害もひどく、後援の続かない急襲作戦では、持久態勢に持ちこまれては失敗である。一度渡ったハルハ河を再び越えて戻らねばならなかった。そして外蒙軍撃滅の夢は破れ、今は却って守勢に立ち敵の侵攻を防衛するのみである。橋本第一部長はこの地上戦を現地に見て関東軍司令部の無理な戦闘方式に呆れ、いよいよ不拡大方針堅持の必要を感じた。然し外蒙軍が満領深く入って来ることになれば手を拱いている訳にもゆかないから、帰京すると同時に野重第3旅団と独立野重第7聯隊を関東軍に送る手配をした。

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 これと相前後して関東軍幕僚の現地指導を封ずると共に戦力の増強をなすため第6軍を編成し、その下に第23、第7、第2、第4師団を配属することにした。軍司令官は荻洲立兵中将、参謀長は藤本鉄熊少将であった。「外蒙軍といっても何程のことがあろう」と荻洲軍司令官は戦力をやや回復した第23師団と第7師団の一部とを以て8月下旬攻勢に転じたが、こんどは最もひどい反撃を受け、旅団長、聯隊長以下負傷し戦死するもの或は軍旗を焼いて自決するもの相次ぎ、小松原師団長は500の手兵を提げて敵陣突撃を敢行せんとする直前、漸く軍司令官命令で敵の重囲を破って帰還した。また8月21日には再度のタムスク爆撃を敢行したが、これも敵機の地上撃破90機に対し、わが未帰還機数十機を出して、もはやこれ以上の積極攻撃は不可能であることを覚らされた。