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連載昭和の35大事件

2019/09/22

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, 経済, 政治, 国際

一個師団を潰滅させ、1万数千の生霊を失ったノモンハン事件の教訓

 この惨敗を取りかえすためまたまた9月上旬を期して第7師団と第2師、第4師団を主力として攻勢に転ずる準備をしている所に8月31日、続いて9月3日奉勅命令が発せられた。その要旨は「情勢に鑑み大本営は爾今ノモンハン方面国境事件の自主的終結を企図す、関東軍司令官はノモンハン方面における攻勢作戦を中止すべし」というのであった。この奉勅命令説明のため新京に飛来した中島参謀次長は、植田軍司令官が「第23師団の屍体収容だけは許して頂きたい、要すれば自分が直接戦場に出て、大命の趣旨に反せざるように指揮を執るから」と泣訴したけれども、次長はそれさえ許すわけにはゆかぬと拒絶した。

 それでは軍司令官として1日も現職に留まる訳にゆかぬから、即刻後任者を銓衡して更迭させて貰いたいというと、それだけは上司に伝達しようと約した。中央では華北に第1軍司令官として駐屯していた海津美治郎大将を関東軍司令宮に、陸軍大学校長飯村穰中将を参謀長に補し、矢野参謀副長、寺田第一訳長以下作戦参謀を尽く入れかえた。植田、磯谷両将軍は一時参謀本部附となし、間もなく予備役に編入された。本意ならずも関東軍に引摺られて無理な戦闘をさせ、戦死、行衛不明7000、負傷9000という大損害を受け、惨敗のまま自主的に戦闘を中止せねばならぬような結果を招いたことは、参謀本部としても責任なきを得ない。そこでこの責任は中島次長1人で負い、橋本第一部長は支那総軍参謀副長に転出することになっていた所、関東軍首脳者2人が馘になった以上、参謀本部も次長1人では均衡がとれないという議が起き、遂に橋本中将も次長と共に現役を去らされた。

チチハルに入城する日本軍 ©文藝春秋

 梅津司令官は着任するや否や、外蒙側が主張せる国境線を事実上認めて兵を引き、着任1週間を出でずして停戦協定を成立させ、翌年6月国境劃定が出来た。梅津は軍司令部並に隷下部隊に対し、軍紀の振粛を厳命しまた国境紛争が如何に重大結果を招来するかを訓示して、いやしくも軍司令官の意図に反する者は仮藉なく処分する事を明らかにした。

 かくて一個師団を潰滅させ、1万数千の生霊を失ったノモンハン事件が何等の殷鑑ともならず、更に大きな犠牲を積み重ねなければならなかったことを惜しむ。

「白い衣類をつけていれば難を避けることができる」と言いながら……

 広島に原爆を落されて軍部が非常にあわてたのはいうまでもなかった。どうも原爆にちがいないと思うが、やはりそれときめるには科学者の調査が必要である。そこでこの方面の権威である仁科芳雄博士に広島へ出向いてもらうことにした。

©iStock.com

 博士はガイガー管を持って立川飛行場にかけつけたが、その日は飛行機が出ないとかでムダ足。

 翌日になってやっと東京から飛び立ったが、広島上空にいくと家屋の倒れ方などから判断して、ガイガーの厄介になるまでもなく、すぐに原爆とわかったとか。

 これを大本営は“新型爆弾”と名づけて発表、白い衣類をつけていれば難を避けることができるなどと、無責任きわまる指導をして新型爆弾恐るるに足らずと豪語した。

 ところが廟議が無条件降伏ときまり、いよいよ陛下の御放送があるという前日になると情報局は、

「原子爆弾の残虐さを大いに紙面で張調するように」

 と新聞に指導してきた。国民は全く愚弄されていたといっていいだろう。

※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。

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